Travel through Architecture by Taka Kawachi
ル・コルビュジエが 日本に残した世界遺産建築
上野公園に建つ『国立西洋美術館』は、近代建築三大巨匠の一人として知られるル·コルビュジエが日本で設計した唯一の建造物であるものの、より広く知られるようになったのは2016年7月に世界遺産に登録されてからのことだった。ル・コルビュジエの本名はシャルル=エドゥアール・ジャンヌレ=グリといい、おそらく異論を唱えるものはいないと思うが20世紀の建築界において多大な影響を及ぼした最重要人物である。また従兄弟であったピエール・ジャンヌレと事務所スタッフであったシャルロット・ペリアンとともに、「LCシリーズ」に代表される家具デザインを手掛けたことでも知られている。
ル・コルビュジエ建築の大きな特徴のひとつとされるのが、建物の一階部分の壁を取り払い上階部分を柱で支える「ピロティ」である。19世紀に発明され20世紀に確立された鉄筋コンクリートで平らな箱型の構造物を支えることによって、より広く自由な間取りを可能にするという革新的なやり方だった。このような建築手法は今でこそ世に広く浸透したわけだが、実はル·コルビュジエが最初に標準化した工法だったのである。彼が設計した建築作品というのは世界各地に約70件が現存しており、その中でも国立西洋美術館はピロティ、スロープ、連続窓などル・コルビュジエらしさがふんだんに生かされていることに加え、丁寧な改修工事のかいもありかなり良好な状態であることも高く評価されている理由と言えるだろう。
この美術館の設計依頼を受けたル・コルビュジエが日本へ視察にやってきたのが1955年11月のことだった。彼にとって最初で最後の来日となったのだが、滞在日数が8日間だけだったにも関わらず、弟子の前川國男や坂倉準三、吉阪隆正とともに建設予定地に5回も足を運び、その合間を縫って京都や奈良なども訪れている。そして、桂離宮や東大寺、古寺の庭や敷石、京都の細い路地などをスケッチや写真撮影をするなどしてアイディアを膨らませていったという。帰国後、彼のパリの事務所から送られてきた最初の設計案は、美術館に加え、講堂や図書館の入る付属棟、さらに劇場ホール棟をも含む大規模なものだったというが、戦後まもない時代での予算には限界があり、結局美術館のみが建造されることとなった。
真上から見ると四角い形状を持つこの建物は、各辺に7本ずつコンクリートの円柱が建てられているのだが(現在はガラスの外壁が設置されたため、一階部分が室内に取り込まれている状態である)、この工法こそが前述したピロティである。“19世紀ホール”と自ら命名した一階の中心部分には、天窓から柔らかな光が入るロダン彫刻が立ち並ぶ吹き抜けの空間となっている。また二階展示室があえて回廊状となっているのは、将来的にスペースの拡張が必要となった場合に、外へ外へと新たな展示室を追加できるようにとあらかじめ構想されていたからだった。そういえば、展示室上部の天窓から以前は自然光が入っていたそうだが、貴重な絵画コレクションを保護するために後にカバーが備え付けられたのは少し残念なところである。
国立西洋美術館本館の完成からすでに63年の歳月が流れた。フランク・ロイド・ライトの『旧帝国ホテル』が老朽化を理由に取り壊されてしまったことを踏まえれば、この建物がほかのル・コルビュジエの建築資産とともに世界遺産に登録されたことは実に幸運だった。日本国内にはここと似たような建築が多くあるのも、結局のところル・コルビュジエが生み出した工法や思想の影響を強く享受してきた日本の近代建築において、そのリアルなお手本であったのがこの美術館だったからとも言える。ル・コルビュジエの弟子である前川國男は、師匠に敬意を払うかのように国立西洋美術館の『新館』と、ここに向き合うように建つ『東京文化会館』を設計したわけだが、この二人が残してくれたモダニズム・スピリットを一堂に体感できるということがどれほど贅沢なことなのか、少しでも近代建築が好きな方であれば理解していただけるのではないかと思う。
河内タカ
長年にわたりニューヨークを拠点にして、ウォーホルやバスキアを含む展覧会のキュレーション、アートブックや写真集の編集を数多く手がける。2011年に帰国し主にアートや写真や建築関連の仕事に携わる。著書に『アートの入り口アメリカ編&ヨーロッパ編』、『芸術家たち 1&2』などがある。
Text Taka Kawachi | Photo The National Museum of Western Art, Tokyo | Edit Yutaro Okamoto |