Leica 100th Anniversary vol.2
人はなぜライカを選ぶのか

ライカを語る上で外せない名作“M”型に新しく加わった新作“ライカM EV1”。デザインはほぼ変わらず、レンジファインダーではなく電子ビューファインダー(EVF)を搭載した革新的なモデルだ。これにより「ピント合わせ」「フレーミング」「露出確認」を一目ででき、使いやすさが大きく進化。伝統的なM型レンズを使いながら、よりユーザーフレンドリーに適した新しい時代のライカである。写真真ん中。左はライカM11-P。ライカ M6。
カメラ好きな人々は口々に言う、「ライカかそれ以外か」。カメラの特集をするうえで避けては通れない存在だ。数々の名機を生み出したライカが初めて、35mm版フィルムフォーマットを採用した初の量産モデル“ライカI”を生み出してから今年でちょうど100周年。そんな記念すべきタイミングにあたって、“なぜ人はライカを選ぶのか”を、4人の写真家のインタビューを通して考えたい。
単なる機材選びにとどまらない価値がある
若木信吾
雑誌から映画まで幅広く活動をし続ける写真家、若木信吾。レンズを通した幅広い活動をする若木だが、そのほとんどを「ライカで撮っている」という。地元である静岡の浜松で過ごした中学時代からカメラ小僧であった若木。最初からライカ、というわけではなく、ほかのメーカのコンパクトから始まり、一眼レフ、大学以降は「35mmの一眼レフがあまり好きになれなかった」という理由から6×6の中判を使用していたという。そんな若木にとってライカを使うきっかけとなったのは、仕事で一緒になったとあるアートディレクターからの依頼。
「『機動力のある35mmの写真が欲しい』と言われて。でも僕は35mmの一眼レフが嫌いだったし、中判でも機動力に自信はあったので『やだなあ』とゴネていたんです(笑)。そこで選択肢として出てきたのがライカでした。レンジファインダーのライカは価格が高いのは知っていたし、自分には関係ないと思っていたのですが、その仕事のギャラを『じゃあカメラ1台分にしよう』と提案してくれて。それで思い切ってM6を買ったのが最初です。使ってみたら、もう一発でハマってしまった。それから20年以上、仕事もプライベートも基本はずっとライカ。フィルムから始まって、今はM10とS3がメインです」。
若木が厚く信頼をおくライカだが、どういった部分が特に魅力と感じているのか。
「一番は、レンズですね。ライカのレンズはピントの合っていないところまでちゃんと写る。多くのレンズは、ピントが合っているところはもちろんシャープですが、ボケたところが“得体の知れない塊”になりがち。ボケていても、『そこに何があったのか』が分かってほしいタイプなんです。ライカのレンズはその中間領域がものすごく自然。ピントが合っている部分。少し外れている部分。完全にボケの部分。そのグラデーションのどこを見ても『ものがものとして存在している』。その解像度が高い。だから、絞りを開けざるを得ないような光の状況でも全部がちゃんと繋がって見える、自分がその場で見ていた以上に、写真の中に情報が残っていて、後でプリントを見て『こんなにも写っていたのか』と驚くことが多いんです」。
そうした描写において、バランスの高さから今ではアポ・ズミクロン 50mmを使うことが多いという若木。このレンズは「自分の目よりも信じている」という。「歩いていて、『あ、いいな』と思った景色って頭の中では一瞬で消えていくじゃないですか。シャッターを切る行為って、その瞬間をただ記録するだけじゃなくて脳にぐっと押し込む感じがある。撮った風景や光が、あとで夢の中の風景になって出てきたりもするんですよね。どこかの国で撮った道が、別の夢の中の町の一部になっていたり。写真を撮ることで、明らかに景色が“素材として”脳に残る感覚があるんです。写真を見返すと、自分がその場で気づいていなかった細部までが写っているから、後から見返して発見があります。『自分が見ていた通りに写っていない』という不満より、『自分が見ていた以上のものが写っている』という驚きの方が大きいのがライカなんです」。
ライカを使い始めてから20年以上が経過したが、いまだに新しい発見があり、ますますその魅力に惹かれている若木。それは、性能だけではなく、背景にある物語にもあるという。
「ここ数年、ライカ本社のあるドイツのヴェッツラーを訪ねたり、本を読んだりしてその歴史に触れることが多くなりました」。
顕微鏡メーカーとして始まったライツ社、三十五ミリカメラを発明したオスカー・バルナック、レンズ設計のマックス・ベレーク。彼らが「ガラスそのものをどう作るか」から研究し、色消しガラスを開発し、50mmを“標準レンズ”として定義していくプロセス。ガラス工場を自前で持ち、戦時中やインフレの時代には社員のために金券を発行し、福利厚生の概念みたいなものまでつくってしまう。そうした歴史を知り深みにハマっていく。
「現在の社主であるカウフマン家による“ファミリー企業”としての再建の話も含めて、ライカって“ファミリー”というキーワードをすごく大事にしている会社です。ライカを使う人たちも、そのファミリーの一員、という感覚は確かにあって、ライカを首から下げていると世界のどこででも、ちょっとした会話が生まれる。その特別感もあって、単なる“機材選び以上の行為”を感じます。僕の仕事は、写真だけじゃなくて、映像を撮ったり、本を作ったり、浜松で本屋をやったりもしています。でも、その中心にはいつも写真があり、そこから映画や言葉、本づくりへと枝分かれしているイメージです。写真と絵、写真と詩、写真と店。いつも写真と何かの関係性を考えていて、その真ん中にはいつもライカがあるんです」。

ライカ発祥の地であるドイツ・ウェッツラーに建つ「フリートヴァルト館」の中からみた景色。「窓を開けて見る景色よりも、ガラスを通して見る景色の方が面白いと思う時がある」と若木は話すように、日本のガラスとは違う光の抜け方がこの写真を通して観ることができる。写真の手前の道路にピントは当たっていたとしても、奥にある町の家一軒一軒の細部までしっかりと写っているところにライカらしさがあるようだ。
若木信吾
米国ロチェスター工科大学写真学科を卒業後、雑誌や広告、音楽媒体など幅広いフィールドで活動。さらに、自ら編集発行する書籍や、故郷である静岡の浜松に根ざした書店“BOOKS AND PRINTS”の経営、映画制作など多才な創作活動を続けている。
| Photo Shingo Wakagi | Interview & Text Takayasu Yamada |
ライカは、撮っても良い人になれる
阿部祐介
辺境の地での美しい景色、そこで力強く生きる人々。まるで音や匂いまでしてくるような臨場感のあるドキュメンタリーフォトを中心に活動し続ける写真家、阿部裕介。彼が最も多く使用するカメラはライカである。
旅先からファッション撮影まで、阿部はライカを使い続けてきた。その理由は、一言で言うと「自分の生き方と一番相性がいいカメラだから」という。
「技術や性能もありますが、それ以上に、サイズ感やシャッター音、デザイン、そしてライカが持っている思想が自分の写真との距離感にちょうどいいんです」。
阿部が最初にライカを手にしたのは大学生の頃。友人の父親からライカ M6を貸してもらうきっかけがあり、そこで初めてライカを手に取った。「最初は正直、良さがわかりませんでした。周りの友人たちはみんな一眼レフで『パシャッ』と気持ちよく撮っているのに、自分だけ音の静かなレンジファインダー。ピント合わせも難しいし、『なんで俺はこれを使っているんだろう……』とさえ思っていました。でも山に行って風景を撮影するようになってから、その違いが分かるようになりました。軽くて、小さくて、電池がなくても撮れる。シャッター音も『チッ』と小さいから、山小屋や民族の家で話を聞いている時でも、相手をびっくりさせずに撮れる。威圧感がなくて、そっとそこにあるカメラ。それが自分の撮りたいドキュメンタリーにはすごく合っているんだと思います」。
フィルムだけではなく、ライカ M11やライカ Q2のようなデジタルも幅広く使用する阿部。撮影に持っていくカメラのルールとしては、「充電ができる旅先であればデジタル、数日間充電できないような場所に行く時はフィルム」と決めている。「画質とか質感の差は、正直いまの時代だと理由の数パーセントでしかなくて。それよりも、旅先で電源が入らなくて『鉄の塊』にならないことの方が重要なんです。だから、山や辺境では電池がなくてもシャッターが切れるM4やM6のような機械式のボディを信頼しています」。
山でも街でもライカを常に持ち歩いている阿部。シャッターを切らない日はないようだ。毎日持ち歩くからこそ、見た目も重要だと話す。「正直、見た目はかなり大きな理由です。毎日首から下げて歩きたいかどうかって、結構重要じゃないですか。ライカの小さいレンズとシンプルなボディは、まず見た目が良く、気持ちが上がって、それだけで外に出て撮るきっかけになる。傷つくのを怖がってしまうより、ガシガシ使ってなんぼだと思っています。それに、コミュニケーションのきっかけにもなります。昔、友人のお父さんに『ライカは人との距離を縮めるカメラだ』と言われて、半信半疑だったけど、旅を重ねるうちに本当にそうだなと思うようになりました。どこの国に行っても、クラシックな見た目のおかげで『それ何?』、『撮っていいよ』と言ってもらえることが多い。良い写真が撮れるかどうかの前に『撮ってもいい人になれるカメラ』というのはドキュメンタリーを続ける上ですごく大事な要素なんです」。
ライカの中でもMシリーズをメインに使い続けるのに、もう1つ阿部にとって大事な理由がある。「一生の定点観測の道具」にしたいという気持ちだ。学生の頃から20代、30代と基本的に同じシステムで撮り続ける。カメラを頻繁に変えないことで、「自分の変化や写っている人たちの時間の流れがよりはっきりと見えてくる気がする」と阿部はいう。
「今はスマホでも十分綺麗に撮れるし、他社のカメラも本当に素晴らしい。でも、自分が毎日持ち歩きたいか、旅に連れて行きたいか、人に向けた時に『撮って良いよ』と言ってもらえるか。そこまで含めて考えた時に、やっぱり僕にとっての答えはライカなんだと思います。学生の頃から使っているこのMのシリーズで一生を撮り切りたい。それが、僕が今もライカを選び続けている一番の理由です」。

ネパールにある標高4000メートル級の村で出会った老婆。出会った瞬間、撮りたい欲求に駆られたが、老婆が仕事中だったこともあり2時間くらい待って、やっと撮ることができた1枚。
阿部裕介
大学在学中より、アジアやヨーロッパを旅し、写真家として活動を開始する。 2024年には、ライカギャラリー表参道にてバラナシの街を記録した個展「Shanti Shanti」を開催。俳優・仲野太賀、映像作家・上出遼平とともに「Midnight Pizza Club」を主宰。
| Photo Yusuke Abe | Interview & Text Takayasu Yamada |











