Leica 100th Anniversary vol.1
人はなぜライカを選ぶのか

ライカを語る上で外せない名作“M”型に新しく加わった新作“ライカM EV1”。デザインはほぼ変わらず、レンジファインダーではなく電子ビューファインダー(EVF)を搭載した革新的なモデルだ。これにより「ピント合わせ」「フレーミング」「露出確認」を一目ででき、使いやすさが大きく進化。伝統的なM型レンズを使いながら、よりユーザーフレンドリーに適した新しい時代のライカである。写真真ん中。左はライカM11-P。ライカ M6。
カメラ好きな人々は口々に言う、「ライカかそれ以外か」。カメラの特集をするうえで避けては通れない存在だ。数々の名機を生み出したライカが初めて、35mm版フィルムフォーマットを採用した初の量産モデル“ライカI”を生み出してから今年でちょうど100周年。そんな記念すべきタイミングにあたって、“なぜ人はライカを選ぶのか”を、4人の写真家のインタビューを通して考えたい。
上田義彦とライカ
30年ほど前に妻から誕生日にライカM3をプレゼントされた。
当時長女が5才頃だったか、妻のおなかには3人目の赤ちゃんが…。記憶は曖昧で4人目だったかもしれないが、とても嬉しかったことをはっきり覚えている。
それまでにもライカM4を使っていたのだけれど、次はM3だと決めていた矢先だったので驚いた。M3はフィルムの装填が面倒くさくM4ほど使いやすくはないが、美しいカメラだった。そのカメラをプレゼントされたので有頂天になり、子供達を家中追いかけ回して、その日は一日嬉しくて撮りまくっていたのを覚えている。
実はカメラは写れば何だっていい。と思っているけれど、ライカM3、M4は美しいカメラだと心底感じる。手の中に入れるとピッタリして嬉しくなる、構えるとまた嬉しくなる、よく出来たカメラだと感じさせる。それ以降、M3、M4を常に持ち歩き使っている。飛行機の窓から見える風景を眺めている時には必ずライカが脇にある、何か感じた時のために。
ただ、このことが時々災いすることがある。必ず脇に置く、ということが。
例えばレストランやカフェで、時にホテルのロビーで、はたまた電車の中かタクシーや、飛行機の座席に置き忘れてしまうのだ。そんな時は気づいた途端、決まって独特のダンスが始まる。先ず身をくねらせて体中をペタペタと触り、その後バックの中を気忙しくさぐりまわり、覗き込む。それらを何度か激しく繰り返した後、呆然と天を仰ぎ見た後、踵を返して忘れた場所に引き返そうと走り出す。あの瞬間は生きた心地がしない。その後は決まって周りの人を巻き込んだ大騒動に発展してしまうのだった…。
ライカは自分にとってそれほど大事な物となってしまっている。
そんなことが多々ありつつも、旅する時は必ずライカとGRが僕のポケットやバックの中にいて、一緒に移動している。
どこかの国の街中を歩きながら、突然ハッとして足が止まった時、次の瞬間ライカのシャッターが切られている。そんな時、僕の体は不思議な幸福感にいつも包まれているのだった。

Leica M3 + SUMMICRON-M 35mm F2 ASPH.
上田義彦
写真家。映画監督。代表作に、ネイティブアメリカンの聖なる森を捉えた『QUINAULT』、前衛舞踏家・天児牛大のポートレート集『AMAGATSU』、自身の家族にカメラを向けた『at Home』、生命の源をテーマにした『Materia』シリーズ、30有余年の活動を集大成した『A Life with Camera』など。近著には、Quinault・屋久島・奈良春日大社の3つの原生林を撮り下ろした『FOREST 印象と記憶 1989-2017』、一枚の白い紙に落ちる光と影の記憶『68TH STREET』、『林檎の木』などがある。2021 年には映画『椿の庭』を監督・脚本・撮影。2022年には『Māter』、2023年に最新作『いつでも夢を』を刊行。2025年には神奈川県立近代美術館葉山館にて個展『いつも世界は遠く』を開催した。
| Edit Takayasu Yamada Haruka Aoki |
時を生き写す存在
北島敬三
991年、ソビエト連邦が崩壊した。70年間続いた巨大国家が、混乱と緊張感のなかで瞬く間に散りゆくその年、写真家・北島敬三はソ連を構成していた15の共和国を約150日間に渡って旅をし、その時代そのものをライカで捉えていた。
30年以上の時を経て、今年10月。これらの記録を1冊にまとめた写真集『USSR 1991』を発刊。そこには国家としてのソ連、そして当時を生きていた人たちの姿が収められている。
北島がソ連で撮影を始めたのは1990年。当時、誰も翌年8月に国家が崩壊するとは想像していなかった。
「ソ連で写真を撮っていた時は、自分ができることを真剣にやらなきゃいけないと思っていました。自分にとって一番大事なのは、人を撮ることだと。目の前の人を撮る時に声を掛けないこともあったけれど、基本的には声を掛けることが多かった。ただ撮りっぱなしにするのは嫌だったから」。
撮影の際には一人ひとりの名前を聞き、可能であれば短いインタビューをすることを自身の中で決めていたという。それは、社会が大きく揺れ動くペレストロイカの混乱のなかでも変わらなかった。
「ソ連は70年ほど続いたでしょう。80歳の老人は、人生のほとんどをその体制の中で生き、共産主義に忠誠を誓った人もいる。一方で、若い人はジーパンやマクドナルドに憧れ、これからの未来に希望を持っている。撮影を引き受けてくれる人は、人種も年齢も職業もさまざま。同じ時代でも、本当にいろんな人がいる。だから僕が何かを想像したり考えたりしながら撮るよりも、とにかく多くの人と会って姿を写し撮り、あとでじっくり見定めていこう、という感覚だったんですよね」。
北島は、その場その時の偶然や事故が写真に入り込む余地をつくるためにも、とにかく量を撮ったという。
「ちょっとしたブレや、わずかな表情の違いで、写真は全然違うものになる。全部を自分でコントロールしようとは最初から思っていなかった。たくさん撮ることで、自分以外の力を呼び込みたかったんです」。
そしてもう一つ、彼が強く意識していたことがある。
「あと10年もすれば、ソ連という国のこと自体をきっとみんな忘れてしまうだろう、と。震災の記憶が時間とともに薄れていくように。だからこそ、時間が経った時に、目の前にいる彼ら彼女らの姿を、しっかりした形で出現させようとしていました。そう考えていたからこそ、インタビューをする際も、安易に『今どんな気持ちですか?』みたいなことは絶対に聞かなかったんです」。
その中で、北島がソ連での旅路を共ともにし、激動の時代と人々の姿を写したのが、ライカM4とズミクロン35mmレンズだった。では、なぜ彼はライカを選んだのか。
「やっぱり何よりも良かったのは、レンジファインダーですね。ファインダーを覗いた時に見たものがそのままフィルムに写る一眼レフは、僕にとっては少し不便でした。構図を切り、絵作りを考えながら覗きたい人には向いているけれど、僕にとってはちょっと面白くないところがあってね」。
ライカのレンジファインダーは、ガラス窓の中に白く細いフレームがうっすらと浮かび、画がきっちり決まらない。その不確定で曖昧な視界が、北島にとって重要だった。
「どう写るかが先に決められていないから、ふわっと撮れる。その感じがすごく大事なんです。あの激動の時代を写す上でも、このライカのレンジファインダーは欠かせない存在でした」。
また、実用性としての信頼性も高かった。
「ライカは丈夫で、操作性も優れている。ピント合わせも爪のような突起が付いていて人差し指だけでできるし、フィルム交換も裏蓋を開ける必要なく、ぽんと開けて落とせばすぐ巻き上がる。慣れると早いんだよね。本当によくできているんですよ。そういう意味でも、スナップを撮るにはライカが一番いい。だから当時も、ソ連ではこのカメラを使おうと思ったんです。最近はデジタルカメラもいくつか試していますが、このM4のように使いやすくて丈夫なカメラはまだないですね」。
そして今、長い月日を経て、当時のソ連の姿を写真集として収める意味について、こう語った。
「これらの写真は決して“過去”のものではないと思っているんです。時代によって、見え方や文脈や価値観が違って変化すると思うんですね。だから、僕はこれらの写真を、ここに写る全ての人の姿や景色を、“自分が撮った過去のもの”だなんて、とてもじゃないけれど言えない。今もこの先も、彼らが生きた姿が色褪せることは決してないんです」。

彼の名は、アンドレイ・チトフ。連邦将校の父と医者の母を持つロシア人で、バクーのアゼルバイジャン共和国にある迷路のような湖上油田で遊んでいた少年。広大なカスピ海を前に風を受ける姿を色鮮やかに捉えた一枚。
北島敬三
70年代後半からコザ、東京、ニューヨーク、東西ベルリン、プラハ、ブダペスト、ソウル、旧ソ連などで撮影。写真家として中上健次や島田雅彦らと協働するほか、2001年以降は岸幸太や笹岡啓子らと「photographers’ gallery」の運営に携わる。『プロヴォーク』の「アレ、ブレ、ボケ」といわれるスタイルと、主体性、反商業主義といった理念をいち早く作品に取り入れた作家のひとり。
| Photo Keizo Kitajima | Interview & Text Haruka Aoki |











