Style through LENS
坂矢悠詞人 (PHAETON) が カメラとメガネに惹かれる理由

1950年代のヴィンテージアーネルは、太いセルフレームとダイヤ型リベットが象徴的なアイウエア。クラシックな存在感と熟練の手仕事が宿る一本で、当時の映画スターたちを魅了した名作。今も色褪せない重厚なスタイルと歴史をそのまままとえる、コレクター垂涎のヴィンテージフレームだ。
坂矢悠詞人
今年、店舗における「式年遷宮」を終えた石川県加賀市のセレクトショップ“フェートン”。そして、雑誌“大勉強”を手掛ける、オーナー兼編集長の坂矢悠詞人。彼こそが、メガネとカメラの深い沼の中で何年も住み続けるまさに魔物だ。だが決して、コレクションするということだけではなく、メガネは坂矢の顔の一部でもあり、お店で扱う商品でもある。また、彼にとってカメラは、雑誌やソーシャルで写真を載せるための必需品である。
歯ブラシレベルの必需品
「メガネもカメラも、僕にとっては生活の必需品で、歯ブラシと歯磨き粉レベルで大事なものです。使わないなんてありえない。メガネに関しては、顔のセンターのパーツなんです。一番ど真ん中。誤解を恐れずに言うと、『安いメガネをすると、安い顔になる』。メガネは完全にジュエリーの世界に突入していて、オリジナルと言われるようなヴィンテージの状態のいいものだと100万円を超えることが当たり前になってきています。セルフレームは折れたら完全修復はできない。油が抜けて痩せていき劣化をしていきます。デニムの色が二度と元には戻らないのと一緒で、『戻せない』という性質が、尊さを生んでいるんです」。
現代のアイウエアのデザインに影響を与えたとされるミッドセンチュリー期のヴィンテージたち。フェートンでは、希少性の高いヴィンテージフレームにどこよりも早く目を付けて扱ってきた。メガネ、カメラ、そのほかあらゆるものにおいてオリジナルに惹かれてしまう性を坂矢は「オリジナル族の宿命」というが、リプロダクト品や現代のものにはない、オリジナルが放つ特有の“波動”がそれらには存在するのだ。

Leica M4 + 1st Summilux 35mm
仕事でメインに使う用のSL2と、家族のつながりを感じながら使うライカM4。M4は、ところどころ表面の塗装が剥げてきており、剥き出しになった真鍮が美しい。
オリジナル族としての宿命
「メガネもカメラもレンズも何個も同じものを買って、使い比べることが好き。レンズで言うと、ライカのヘクトール73mmを4本とか、50mmはもう何本買ったかわからない。そうやってエビデンスを増やしていくと、個体差が見えてくるんです。『これは誰かが磨いているな』、『これが本当の30年代の写りだな』とか。純度の高いオリジナルだけを残して、それ以外は手放す。その作業を続けていくと、『オリジナル族には、次の世代にそれを継承する責任があるんだな』と自然と思うようになる。運命というか、ミッションのような。メガネも同じです。ヴィンテージか復刻のどちらかを選ぶのは人それぞれ自由です。でも、ダブルエックスのデニムと一緒で、オリジナルとリプロダクト品は明らかに波動が違う。元々持っている固有周波数のようなものが違う。そこに惹かれちゃう人間は、もうオリジナル族として生きるしかないんです。諦めましょう」。
今もっとも頻繁に坂矢自身が使用するものとして、紹介をしてくれたのが1950年代にタートオプティカルによって作られたアーネル。「アーネルは2007年ごろ、アメリカでペーパースリーブのデッドストックを大量に発見した時、衝撃が走りました。大量に買い付けて、当時フェートンで販売価格3万円。2010年ごろからジョニーデップがアーネルを身に付けていることが知られて、世間的に人気に火がつき、30万、50万、100万と上がっていきました。それまではオタクの世界のものが、100万を超えると一気にお茶の間に。アーネルは現代のアイウエアデザインのベースを作ったもので、フレームにおいての金字塔なんです」。
一方、カメラの方はというとライカのM4に合わせたズミルックス、SL2に合わせたアポズミクロンを普段のメイン機材として紹介してくれた。1967年代に生まれたM4と、現代のSL2。ともにライカではあるが、この新旧の組み合わせを坂矢は楽しんでいる。「機械においては、僕にとってスペックと見た目の両方がちゃんと合致してくれないと、まず使う気にならない。あるメーカーの車がどれだけ実用的に優れていても、ビジュアルが自分とマッチしないから一度も乗らないのと同じです。今日は1930年代の車で出勤しましたが、昨日は最新のベントレーに乗っていました。1930年代と2020年代、約100年分の感覚値を高速で行き来し、シャッフルして、水と油を無理やり混ぜたいタイプなんです。最新のアポズミクロンで輪郭がビシッとたった写真を撮った翌日に、1930年代の柔らかいレンズで滲んだ光を撮る。その往復運動で、自分の感覚を常にかき混ぜておきたい。ライカのレンジファインダーの魅力はというと、もう身体の一部ですね。M型に関しては使い慣れたという次元を超えていて、まばたきするみたいにピントが合う。0.2秒で察知してシャッターを切る。人間って、目の前の景色を0.2秒でほとんど理解しているのだと思います。だから僕は説明的な写真が撮れない。感動していないとシャッターを押せないんです。この前も美術館の取材に行ったとき、館長さんが説明してくださっている横で僕はもうバシャバシャ撮っていて。説明を聞いたあとに撮ると、説明ベースの写真になっちゃうんですよね。自分のフィルターを通さないとライカを持っている意味がないと思っているから」。
商業カメラマンとしてではなく、感受性のプロとして坂矢はライカを選んでいるのだ。また、M4は主に子ども達の成長を撮るために使用し、SL2は仕事での使用が基本となる。このほかにも数々のカメラ、レンズを所有する坂矢だが、撮る時に何か意識していることはあるのだろうか。

開放軍から絞り族
そして、バランス族へ
「最初は完全に開放軍だったんです。ノクチルックス、ズミルックス、タンバール、ヘクトール……。とにかく明るいレンズを開放で撮ることしか考えてなかった。いかに1.0で撮るかだけを考えていた開放軍。そこに、アポズミクロン 50mmが出てきた時は衝撃で。解像度と直線の表現力にやられて、一気にアポしか使わなくなったんです。で、開放軍をやめて“絞り族”に転向する。F4とか5.6の世界に夢中になっていきました。で、今はというと“バランス族”。開放も絞りも両方の美点がちゃんとわかった上でバランスを取りながら使うフェーズにようやく来た感じです」。
ライカは父の記憶を紐解く装置
坂矢がこれほどまでにライカにのめり込むようになっていった理由を遡ると、20代半ば、ベルリンで40年代の自転車を何台も買ってきて、クラシックなものに一気に惚れ込んでいた頃に辿り着く。たまたま、19 30年代のヘクトール50mmを見つけた坂矢は、「30年代のレンズで撮ったら、30年代の景色になるな」と直感し、まずレンズだけ買った。その後、そのヘクトールをつけるカメラとして発売されたばかりだったM8を買ったという。「そこからはもう沼ですね。沼にダイブしました」。だが、その遥か前からライカは坂矢にとって近くに存在していた。しばらくして、カメラを抱えて実家に帰った時、母親から「あんた、お父さんと一緒やね」と言われてハッとする。亡くなった父親がライカコレクターだったのだ。「母親から『あのガラスケースにいっぱいあったでしょ、ライカ。あれ全部お父さんのだよ』って言われて。僕が物心つく前から実家にはM3やM4、ズミルックスのレンズがあったわけです。でも記憶はほとんどない。それを聞いて真っ先に書斎を開けると、箱付き未使用のM6がごろごろと出てきた。あの時は本当に嬉しかったですね。父は時計も車も相当なコレクターだったので、昔の写真を通して「父はどの車が好きだったのか」、「どんなものに惹かれていたのか」を追いかけられる。同じ赤丸(ライカのロゴデザイン)を追っているうちに、『あ、自分はこの人のDNAそのままなんだな』と腹落ちした感覚がありました。だから、僕にとってライカは単なる道具じゃなくて、父の背中を辿るための装置でもあるんです。だからこそ、愛せないと使えないんです」。
スペックと見た目、背景にある物語、DNAとのシンクロ。そういうもの全部をひっくるめて、坂矢はカメラやメガネに惹かれ続けている。


坂矢悠詞人
石川県加賀市を拠点とするフェートンのオーナー。雑誌“大勉強”の編集長としても活動し、洋服はもちろん、車からビックリマンシールまで、古今東西のあらゆる物事を六感を使いながら提案し続ける。
| Photo Yoshihito Sakaya | Interview & Text Takayasu Yamada |











