What is “COOL” ?

河毛俊作(演出家)が考える クールの美学

人生の中に余白や遊びが
ないのはつまらないですよね

演出家・河毛俊作。江戸風情が息づく東東京で生まれ育った河毛は、若かりし頃から映画や文学に傾倒し、社会の先輩たちとの交流を通して“クール(反抗的態度)”を学んできた。そんな彼の代表作には、粋な男の振る舞いを数多く説いた小説家・池波正太郎の著作『仕掛人・藤枝梅安』の映像化や、木村拓哉主演で当時数々のファッショントレンドを生み出した『ギフト』をはじめとしたトレンディドラマの監督がある。そう知ると、彼が男の作法や洒落た男性像をどれだけ探求しているかが伝わるのではないだろうか。クールな男に求められる条件を聞いた。
「服は着たいものを着るべきですが、着ている服が他者を不快にすることもあるので気をつけなければいけません。極端なことを言えば、結婚式やお葬式にはそれぞれ適切な服装があり、あえて外したような服装をする必要がない。洋服は自己表現ではあるけれども、相手への気遣いでもある。そのプリンシプルをきちんと持っている人こそがジェントルマンです。『TPOをわきまえない俺かっこいい。どこでも俺スタイルを貫くことがかっこいい』というのは間違っている。だからマナーがないと何が正しいのかがわからなくなるのです。マナーとは何かと言うと、人間が何百年もかけて、失敗も経て築き上げてきた共通意識です。時代とともに人間という存在が解明されていき、決められていったもの。そんなマナーを前提として理解していない人が増えているのではないでしょうか。あえて規則を破るという考え方もありますが、それはマナーを知っているからこそできるもの。『型破りというのは、型を知っていなければできない。お前のは型無しだ』と歌舞伎の世界では言ったりします。本来はどういうものなのかをわかっているか否かで全く話が違う。意外な組み合わせは、本来の組み合わせを知っていないとできないですし、理解している人同士でなければ通じ合えない。マナーという名の、共通の教養や文化意識を身につける必要があります。
クールな男の条件として、『きっちりとした格好の時にリラックスして見えて、カジュアルな格好の時にだらしなく見えない』ということがあると思います。具体的にはタキシードとブルージーンズを例に挙げられます。タキシードの似合う人がブルージーンズも似合うとは限らないですが、ブルージーンズが似合う人は間違いなくタキシードも似合う。スーツを着ているとそれなりの人には見えますが、ブルージーンズは着ている人の人間性を透かして見せます。今日の取材にはどのような格好で来ようかと考え、あえてブルージーンズのセットアップと無地の白いTシャツにしました。世代を問わないタイムレスな格好ですが、着る人によって全然違う見え方になるからおもしろい。冬の場合は、迷ったら白黒のヘリンボーンのジャケットを羽織り、グレーフランネルのパンツを穿き、白いシャツを着てニットタイをすればいいのです。そういう余白や奥行きのある格好をする人が本当に洒落ていると思います」。

シオタのデニムジャケットにブルーブルーのデニムパンツを合わせるという、日本ブランドでまとめた河毛のブルージーンズスタイル。腕元には赤青ベゼルの色褪せた経年変化が美しいロレックスのGMTマスター1675とクロムハーツのリングが鈍い輝きを放ち、無骨な印象を与える。腰に覗くのはクロムハーツのウォレットチェーンで、「財布を無くさないため」という目的そのままにスーツのときも欠かさず付けている。
陰りや傷ついている雰囲気が
男の魅力を生み出す

型破りになれるか、型無しとなってしまうか。いかにマナーや基本が土台として重要かがわかる。自由という言葉を振りかざして好き勝手するのではなく、決められたマナーの中にある余白を探し、いかに新しいことができるか。その遊び心が洒落た人間像を生み出すのだ。「自由が過ぎれば放縦になるし、規律が過ぎれば独裁になる。そのバランスが現代では完全に崩壊しています。ある人は何を言っても許されて、ある人は何を言っても怒られる、みたいなこともあるじゃないですか。誰もがミック・ジャガーのようなロックスターではないからこそ、自分が何者であるのかを理解する必要がある。自信を持って堂々と生きることは素晴らしいですが、俺の勝手だから何をしたって自由なんだと勘違いしている人が増えてしまっている。だからただの無秩序になってしまっていることが現代は多いと思います。これは納得できるけど、それは納得できない、ということは当然ありますよね。若い頃は大人の建前なんてものは不潔だと感じていましたが、実はとても大事なのだと今では思うようになりました。男のかっこよさやクールさを担保するものとして、ちょっとした羞恥心や後ろめたさが重要です。陰りのない男性は、どんなに素敵な服を着ていたとしてもいまいち惹かれない。後ろめたさや、どこか傷ついている雰囲気が滲み出ることで男の魅力が生まれるのです」。

諦めや執着の無さが大事

取材を行ったキャンティ飯倉片町本店は、多くの文化人やアーティスト、俳優が集ったサロンのような場所として愛されるイタリアンの老舗。河毛は50年近くにわたって通っており、人生の先輩たちとの交流をしてきたようだ。さまざま時代の風を浴びてきた河毛の目には、現代のクールとはどのように捉えられるのだろうか。「私が学んだクールは、同じ言葉でも現代の感覚とは合わなくなってきている気はします。大前提として、日本の粋やアメリカのクール、イギリスのジェントルマンは、異なる国で生まれた別々の概念ではあります。しかし共通していることが一つだけある。それは『感情を露わにしない』ということです。大正時代にイギリスのパブリックスクールに留学していた池田潔の著作『自由と規律:イギリスの学校生活』に書かれているのですが、イギリス人の特性として“アンダーステイトメントである(控えめな表現をする)”、“感情を露わにしない”ということが挙げられています。ですが、本来のイギリス人は感情が強い国民性だと言われています。では、なぜそんなイギリス人が感情を抑えた振る舞いをするのかというと、彼らは『感情のプライバシー』を大切にしているからなのです。すごくいい言葉ですよね。自分が喜怒哀楽を示すと、感情が動揺していることを他者に悟られます。でもそれ以上に、相手の感情のプライバシーに影響を及ぼしているということが問題なのです。怒っている人を相手にすると誰しも動揺してしまいます。それは人の感情のプライバシーを侵害している。この感覚はアメリカのクールにも、日本の粋にも通ずるものがあります。粋とは、『媚態(他者を意識した魅力的な態度)』、『意気地(自分を貫く誇り高さ)』、『諦め』の三要素から成ると言われ、中でも諦めや執着の無さが大事だと私は思います。

感情のプライバシーを持ち
少数派でいることを恐れない

感情のプライバシーを大切にすることは、クールでいるための基本中の基本です。でも一体どれほどの人ができていることでしょうか。SNSが最たる例ですが、とにかく激しい感情を主張した者勝ちのような、みんなでワーワー騒ぐ風潮が現代にはあると感じます。クールもヘチマもありません。人間が成熟できなくなっている、むしろ成熟することを軽蔑さえしている人が多いのではと思います。だから現代におけるクールの一番のテーマは、『少数派であることを恐れない』ということです。そもそも“かっこいい”という言葉自体が“少数派”という意味を内包しています。ロックンロールやエルヴィス・プレスリーだって、最初は世間から軽蔑されていたわけだけど、一方でクールだと感じる人たちもいた。クールとは、奴隷としてアフリカからアメリカに移住させられた人たちが自尊心を保つために取ったさりげない反抗的態度やへりくだりが源泉にあると言われていますが、そういうことがルーツだと思うと、かっこいいかっこ悪いの話だけで言えば多数派でいること自体がかっこ悪い。もちろん多数派が好むものを悪だとは言わないけども、少なくとも私は多数派には与せない」。

感情のプライバシーをわきまえない人が増えている。成熟することを拒む人が増えている。「少子化の原因は増子化(子どものような大人の増加)にある」という社会分析さえあるようだ。その原因の一つに「テクノロジーの発達」があると河毛は読み解く。「昔の日本人は意思表示が苦手で、イエスとノーがはっきりしない国民性や、グレーの文化性がありました。ですが現代では逆転してきていると思います。それはテクノロジーの発達により、誰もが思ったことを瞬間的に世界中に発信することが容易になったからです。たとえば、夜中に書いたラブレターは翌朝に読み返すと、とてもじゃないけど送れないような恥ずかしい内容だと昔はよく言ったものです。でも現代ではインターネットを通じて、夜中に書いたラブレターを瞬時に世界中へ発信できてしまう。喜怒哀楽に任せて書いたものを即座に発信し、結果として炎上してしまっている人が多いのではないでしょうか。倫理観や思考といった人間の中身の成熟はテクノロジーの発達に追いついておらず、人間はテクノロジーを使いこなせていない側面があるのかもしれません。だから考えたことは一旦立ち止まり、本当に言うべきかどうかを考える必要があります。ある種の便利さや合理性を手に入れたことと引き換えに、人間が本来持っていた良きものを売り渡してしまった気がします。
あまりに便利さや合理性を求め過ぎると、人間的な余白は失われていきます。人生の中に余白や遊びがないのはつまらないですよね。つまりは不便を楽しめるかどうか。『野暮は揉まれて粋になる』と言いますが、粋とは社会に出てから身につくもの。だって、『粋な子ども』なんていたらいやですよね。でも、『粋も過ぎれば野暮になる』とも言います。いきすぎた格好は逆にかっこ悪い。趣味の良さとは何かを我慢できることであり、足し算ではなく引き算の価値観。私の叔父は酒飲みだったのですが、彼がよく言っていたのは、『ツマミを頼み過ぎるのは粋じゃない』と。卓いっぱいに料理が並んでいる客を見ると、『あれは粋じゃねえ。酒が不味くなる』と言っていました。江戸前だと卓が料理でぎっちり詰まっているのは野暮臭い。白い器がぽつんぽつんとあるぐらいの、余白のある景色が粋なんです」。
自由と規律。本音と建前。信じることと疑うこと。一見相反するように思われるこれらの二項対立は、実は同時に成立させることが大切。感情のプライバシーをわきまえたジェントルマン性と、周りに流されない反抗的態度や不良性といったクール。そして余白を楽しむ粋な心。そのどれもが河毛の所作や発言に滲み溢れている。男なら誰もがこの大先輩の背中を追いかけたいと思うはずだ。

河毛俊作
1952年生まれ。1976年にフジテレビに入社し、数々のドラマや映画を手がける。コラムの執筆も多く手がけ、著作『一枚の白いシャツ 男、45歳からの服装術』では男としての心意気や究極のワードローブを書き綴り、タイムレスなメッセージを残している。

Photo  Asuka ItoInterview & Text  Yutaro Okamoto

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