COLUMN Respect for Heritage Future in the past Kunichi Nomura

機能を考えて作ったものに 無駄な工夫はいらない

18:16 – 20:08
7th December 2022 at Tokyo
From Morning
2 cup of Americano
2 box of Marlboro gold soft pack
 

自分が歳をやたらと重ねてきたからかどうだかわからないが、年々ひょっとすると俺はアナログ人間なのか?と自問自答することが増えてきた。何も新しいものを片っ端から否定するような、そんな頑固ジジイになったわけではないのだが、どうにもこうにも新しいものに惹かれることが激減しつつある事実に目を背けることができない。毎年必ず出たら手に入れるという最新のものというのは考えてみればiPhoneとかくらいで、他に欲しい!必要だ!と思うものがないのだ。新しい服も靴も惹かれるものがない。今年の春夏はこれだ、秋冬はあれだとはどうしても思えない。

iPhoneやMacといったアップル製品の話で思い出したが、最近のキーノート、発表会で心躍るような新製品がない、スティーブ・ジョブズがいた頃は毎回ワクワクしたのにと文句を垂れる人がよくいる。そりゃあそうだ。あの頃はまだスマホも新しく、毎年使える素材が変わったり、技術が日夜進み、薄く作れるようになったりと一年の間に変化が大きかったし、iPadだのAppleWatchだのと、それまでにないものを発表できる余地がたくさんあった。今は違う。それぞれのものがある程度限界まで進歩してきているわけで、そんな見たこともないようなデザインや、使い方もわからないような新しいデヴァイスなどがポンポンと生まれる時代ではなくなったのだ。

そんな中、向こうのデザインチームの奴と話していてなるほどな、と思ったのが、「僕たちは新しい製品のために無理にデザインをしたりしない」という話だった。内容をアップデートはもちろんしていく。でも完成系に近いと思ったデザインを、新しいものを売ろうと無理には変えない。自分たちは常に完璧を求めて最初からデザインしているので、そんなコロコロ変えなきゃいけないようなものは作らないのだという話を聞いてすげえなぁと思ったのだ。なぜかといえばこの世は新しく見えるためのデザイン、瞬間的にものを売るためのデザインが溢れているからだ。

デザインというのは、サービス業だということを前にも書いた気がする。クライアントが居て、彼らの製品が市場で受け入れるためのお手伝いがデザインだ。機能性から生まれるデザインももちろんあるというか理想だが、大体においては実際のものよりどうやったら素敵に見えるか?格好良く見えるかということにデザインの重きは置かれる。実際の機能性を水増ししてみせるように手伝うのが大体においてのデザインともいえる。お客さんとの騙し合いといってもいい、残念ながら。パッケージデザインが一新されたからといって、中身も一新されたのか?というとまずそんなことはない。けどそう見える。

デザインとは大体そんな仕事ばかりがたくさんある。例えば内装のデザインを依頼されるとき、俺たちが手掛けたから耐久性が増すとか、機密性が高くなるとか、そういうことは残念ながら全くない。なんとなく前より素敵に見えるようお手伝いをするだけだ。それは2次元仕事のカタログや雑誌でもなんでもそうだ。それでも昔は一つの仕事にじっくりと時間と予算をかけて、どうやったら他と差別化できるかと試行錯誤する暇があったが今は違う。なんでも時間はかけないし、売れそうなデザインというのはネットで見られてすぐに全員が同じものを作りだすので、熟成させる時間もない。

そうこうしているうちにデザインは新しいものを売るためだけのものになり、それっぽく見えるものが氾濫するようになったのだ。ファストファッションがいい例で、世界各地の主要都市に散らばったスタッフがおしゃれな人の格好を写真に撮って送ると2週間後にはその服が店に並ぶなんていう話があった。そしてこれまた2週間後には売り場から消え去る。ここまで来るとデザインってなんなのっていう話になる。速攻で売って速攻で飽きられるデザイン。そんなものだらけの世の中に暮らしているうちに俺たちのデザインに対する感覚というものはどこかひん曲がってきているような気がする。

俺は車が好きで、周りも車好きが多いので「今、新しい車を一台買うとしたら何を買う?」という話によくなる。金がある、ないにかかわらず、今調子の良さそうな車はあるのかどうか皆知りたいわけだ。そういう話の中で一番出てくる答えが「新車の中に欲しいものは一台もない。」という奴だ。これだけ毎年いろんな新車が発表されるのに一台も欲しい車がない。何故なんだという話に必ずなるのだが、それは中途半端に今っぽくするデザインがちっとも響かないからだということに落ち着く。新しい感じに見えるようにしたい、未来を感じる曲線を取り入れたい。いろんな事情をすべて突っ込んだ結果、新車のデザインは改善されることはなく、改悪になることの方がはるかに多い(と俺は特に思う)。昔のみたいに箱っぽい車が欲しい、直線が綺麗なものが欲しい、流線型だとしても、ラインが綺麗でプラスチックのパーツがないのが欲しい。そんなものを欲しても市場にはそんな新車はない。昔にはたくさん存在したのに。そう昔にはあった。外車でも国産車でも、今でもあったら乗りたいと思うようなデザインの車が。

服でもなんで昔にはいいデザインのものがたくさんあったのだろう?なぜ飽きの来ないものが存在できたんだろう?それはもう無駄なことをしなかったということ。そして機能を考えて作ったものを一年ごとに新しく見えるように変えようとは思わなかったからだろう。10年ほぼデザインが変わらないものなどたくさんあったし、物によっては40年もほぼ変わらないようなデザインのものがゴロゴロあった。俺が家で使っているアルテックというスピーカーは50年代に誕生し、80年代まで現行品として生産され続けた。ある種ひとつの完成形のデザインで、音が良さそうだなと思うスピーカーとして認知されまくっている。

車でもそういうものがあった。今じゃトヨタのボックス型タクシーよりも都内で見ることの多いベンツのゲレンデも数年前にフルモデルチェンジするまで、ほぼ同じ形で数十年あったし、その上にはレンジローバーのディフェンダーという化石のようなデザインの車が現行で作られていた。確かにデザインは新しくはなかったが、その車に必要な要素がすべてデザインに組み込まれていて、新しくする要素というのはエンジンやミッションといった中身以外はなかったと思う。俺が今という時代でみたいのはまさにそんなデザインのものだ。数週間、数ヶ月で消費されるようなものではなく、どこか時代を超越して、残っていくデザインのもの。時代を意識し過ぎて余計な要素ばかり組み込んだものではなく、将来旧車として古着として残っていくようなもの。そんなデザインを作るにはどうしたらいいだろう?どこに転がっているのだろう?それこそFuture In The Past、昔に目を向けることだ。

先日、文化服装学園でNIGOが自分がコレクションしてきた古着の展示会を開催していたのだが、そこに掲げられたテーマがFuture In The Pastだった。パリのメゾンブランド、KENZOを始めさまざまな場面で服をデザインしていくNIGOのアイディア源であり、デザインの先生が古着という事実。実際に時代の荒波を超え、普遍的なものとして残ってきたものには、それだけの説得力と意味が存在するのだ。

過去を遡り、普遍的なデザインを学び、そこに今の技術を取り入れることで、ただの焼き直しにならないもの作り。消費されるための物が溢れる今、そんな目線で活動している人たちがいる。俺のように新しいデザインにいいものがない、欲しいものがないと嘆く人は、あたりをよく見渡してみて欲しい。長く使える、普遍的なものを作っている人が必ずいるはずだ。

野村訓市
1973年東京生まれ。編集者、ライター、内装集団Tripster主宰。J-WAVE『Traveling Without Moving』のパーソナリティも早、8年目になる。企業のクリエイティブディレクションや映画のキャスティングなど活動は多岐に渡る。

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