COLUMN about Modern + Craftsmanship Kunichi Nomura
野村訓市の連載コラム テーマはModern + Craftsmanship
そこに価値を見出したい
PM17:03 – 19:31 6th September 2021 at Tokyo | From Morning 4 cup of Americano 2 box of Marlboro gold soft pack |
ハングリー。10代の頃を一言で表すとこうなる。ハングリー精神、野心があったわけでもなく、食に飢えていたわけでもなく、物欲で飢えていたのだ。昼飯代があるならそれを使わず腹が減っても我慢して買いまくったレコードやCD、買いたい服があったらそれをゲットするまであらゆる手段を講じる。そう、とにかく情報に飢え、そこから紐づくモノに飢えていたのだ。
その底なし沼のような欲は極めて強力で、青虫くんじゃないが、とにかくすべて満たされなかった。世の中に知らないことも、欲しいものも一杯で、ひと段落するなんてことは絶対なく、眠れぬほど満たされなかったのだ。音楽でも服でも、カルチャーでも何よりまず大事だったのが情報で、小出しされるもの、アメリカから細々としたもの(本場という言葉に異常に弱かった)、店にいる知識万歳のお兄さんと仲良くならなきゃ教えてもらえないなど、あらゆるコネや繋がりを駆使し、足を使って努力しなければ自分のしたい情報は手に入らなかった。
今思うに、随分とガセネタや想像から生まれた嘘も混ざり込んでいたし、後で真実とは全く違うということもよくあった。けれどもだ、そうしたいらん知識を身につけると、当然いろんなものが欲しくなる。手に入らないと知ると、余計に欲しくなる。それは靴から、おもちゃ、CDに、本、そして服とあらゆるジャンルに無数にあった。「へぇ、若いのにいいもの着てるね。何も知らないわけじゃないんだな。じゃあこれは知ってる?」年上は親切というよりむしろ意地悪だったね。そうやって持たざる者のハートをブスブスとさしてくるものだった、物欲というナイフで。
服で言うと、とにかくやられたのがやっぱり古着。何しろ現行品がある501みたいなものは、年代ごとに違うだの、古いのがいいに決まってるだのと言われると、物欲に火がつくものじゃないですか?一見、どこにでもある501なのに見る人が見れば違う、こういうのは本当にイヤな奴というか気になるのだ。やれ旧タグだとか、工場が違うとか細かい違いを提示されると、いままで気にも止めていなく、それまで持っていたもので満足していたのに、当然それじゃイヤになるものがたくさんあった。買い直しの無限ループ、もしくは終わりのないコレクション、俺は若いうちに旅にハマって物欲から経験欲に移行できたから、底なし沼にはまることがなくラッキーだったけれど。
日本に帰ってきた90年代の終わり、辺りを見回せば東京はまだストリートブームだった。Tシャツの販売に徹夜で並ぶ、コラボが定価の何倍もの値段で売れる。1日500円とかで暮らし、おなじTシャツを1週間着たりする生活をしていた俺にとって東京の状況は腰を抜かすほど驚かされるワンダーランドだった。かつてやたらこだわったアメリカ製であるとか、リアルインディゴだとか、もうこの年代には生産が終了していて手に入らないという、俺にとってわかりやすい理由で人が殺到するのではなく、数に限られてる新品を買うために並ぶ。すげえ世の中になったと思ったし、どこかイカれているとも感じたが、同時に日本のカルチャーにとってはいいことなのかなとも思った。海外のものが無条件でいいというのではなく、国産の作り手の顔が見えるものが売れるのだから。
じゃなければこういう服が手に入らない、ということはかなり減った。そこそこにいいものがどこでも安く手に入る。そう変わっていった中で、つまり、より便利に買い物がしやすい時代になっていくにつれ、それと反比例するように俺のモノを買うということへの情熱はどんどん衰えていった。それについてなんでだろう?と何度か考えたことがある。興味が失せたわけじゃない、今でもモノを調べたりするのは大好きだし、はっきりいって多分平均よりかなりモノにも雑多に詳しい方だ。けれども買う意欲は減り続けている。これを持ってる俺はすごいだろう!という気力が早く衰えたのかもしれない。流行りというものを客観的に見過ぎてついていけないのかもしれないし、モノを増やすより減らしたいというおっさんの生理現象が発生しているのかもしれない。どれも当たりだろうが、一番は買う必然性を感じるということが昔より減ったからだと思う。旬がすぐに過ぎてきれなくなるものはもうあまり欲しくない。同じようなクオリティのものが安く買えるのに、ブランドタグがついただけで高いものはわざわざ買う気がしない。安くて良いモノが増えまくったこの世の中で、何かを買うっていうことに対しての敷居がものすごく高くなってしまったのだ、俺の中で。何か意味が欲しい、金を払うというときに。
昔は何かを買う時に、そのモノだけを買っていたんじゃなかった。その背景にある歴史や、物語やカルチャーといったものすべてをひっくるめて買っていたんだと思う。そのモノのまわりにある空気感も。世界中がデジタルで繋がり、タイムギャップや場所の距離が意味を失い、どこかで埋もれていた知らない歴史を持つものや、どこかの街で生まれたカルチャー、そういう何か特別なものを内包したモノを見つけることが難しい今という時代に自分は何があれば買いたいと思うのだろう?安くても好きな友達が頑張って作ってるもの、自分が笑えるユーモアのあるもの。そういうものは買いたい。これは定番で多分一生とりあえず使うだろう、というものは買いたい、もしくは買い続けたい。あとはなんだ?それは何か作り手の意思や思いが感じられるものだろう。ゆっくり時間をかけて手作りしたものや、昔ながらの技法を守りながら作られるもの。なにも手作り至上主義なわけじゃない、それをやたらありがたがる人もいるにはいるけれど。だがなんでも大量に生産できる世の中で、そう意味のあると思えないものに大枚をはたく気はない。昔ながらの丁寧な作りを感じられるもの、そこに価値を見出したい。
ただ、その頃からか、モノを買う、特に身近なものを買うことに関して随分と世の中が変わっていったと思う。コラボとかそういう売り方もそうだが、ヤフオクとかから始まるリセールビジネス、オンラインストア、ファストファッションに始まる安かろう=悪かろうからの変化。2000年代に入って、子供の頃から自分が体験してくることで覚えたモノへの価値の求め方や、買い方というものが世の中的に通用しないわけではないけれど、大きく変わっていった。金があれば、基本的に探せないものはない。そしてそれがどこにあるのかを探すのに、特殊な人脈をたどるとか、長い年月をかける必要もなくなった。ネットでググればいいのだから。安いもの=悪いものでもなくなった。あの店で売っている、あのブランドじゃなければこういう服が手に入らない、ということはかなり減った。そこそこにいいものがどこでも安く手に入る。そう変わっていった中で、つまり、より便利に買い物がしやすい時代になっていくにつれ、それと反比例するように俺のモノを買うということへの情熱はどんどん衰えていった。
それについてなんでだろう?と何度か考えたことがある。興味が失せたわけじゃない、今でもモノを調べたりするのは大好きだし、はっきりいって多分平均よりかなりモノにも雑多に詳しい方だ。けれども買う意欲は減り続けている。これを持ってる俺はすごいだろう!という気力が早く衰えたのかもしれない。流行りというものを客観的に見過ぎてついていけないのかもしれないし、モノを増やすより減らしたいというおっさんの生理現象が発生しているのかもしれない。どれも当たりだろうが、一番は買う必然性を感じるということが昔より減ったからだと思う。旬がすぐに過ぎてきれなくなるものはもうあまり欲しくない。同じようなクオリティのものが安く買えるのに、ブランドタグがついただけで高いものはわざわざ買う気がしない。安くて良いモノが増えまくったこの世の中で、何かを買うっていうことに対しての敷居がものすごく高くなってしまったのだ、俺の中で。何か意味が欲しい、金を払うというときに。
昔は何かを買う時に、そのモノだけを買っていたんじゃなかった。その背景にある歴史や、物語やカルチャーといったものすべてをひっくるめて買っていたんだと思う。そのモノのまわりにある空気感も。世界中がデジタルで繋がり、タイムギャップや場所の距離が意味を失い、どこかで埋もれていた知らない歴史を持つものや、どこかの街で生まれたカルチャー、そういう何か特別なものを内包したモノを見つけることが難しい今という時代に自分は何があれば買いたいと思うのだろう?安くても好きな友達が頑張って作ってるもの、自分が笑えるユーモアのあるもの。そういうものは買いたい。これは定番で多分一生とりあえず使うだろう、というものは買いたい、もしくは買い続けたい。あとはなんだ?それは何か作り手の意思や思いが感じられるものだろう。ゆっくり時間をかけて手作りしたものや、昔ながらの技法を守りながら作られるもの。なにも手作り至上主義なわけじゃない、それをやたらありがたがる人もいるにはいるけれど。だがなんでも大量に生産できる世の中で、そう意味のあると思えないものに大枚をはたく気はない。昔ながらの丁寧な作りを感じられるもの、そこに価値を見出したい。
若い友達と、レコードや紙モノの雑誌やジンの話をした。懐古主義じゃなくそれらのものを買っていると。それも復刻のレコードとかじゃなくて、今のバンドのレコードのやジン、いわゆる現行品を買っているのだと。「そりゃまたどうして?」と尋ねると、答えは「大して儲かりもしないことを時間をかけて、苦労して作るものっすよね?だからすごいいいはずじゃないですか」だった。「まぁそうだけど、全部が全部良いわけじゃないだろ?」というと「だったら損するだけじゃないですか、お金掛けて作って」。一理あるなと思った。安いものが溢れるなか、あえて手間暇掛けて作っているものなら、良くないわけがない。
今、世の中には安くていいものと、やたら高いものとに分かれていて、あぁそうねという感じでちゃんとモノを見なくなっていた気がする。そう考えてから今売られているものを見渡してみれば、うっとしい自己主張を強くするものでもなく、シンプルなデザインでも一手間も二手間もかけられたものが、俺たちの手に取られることを静かに待っている。
野村訓市
1973年東京生まれ。編集者、ライター、内装集団Tripster主宰。J-WAVE『Traveling Without Moving』のパーソナリティも早、7年目になる。企業のクリエイティブディレクションや映画のキャスティングなど活動は多岐に渡る。