Spirituality learnt from Rakugo
「厳しさとやさしさ」「我慢」 落語に学ぶタイムレスな価値観
世界屈指の人口密度だった江戸の街。濃密な人間関係が人々の価値観を磨き、その価値観を現代に残すのが落語である。多くの人の胸をスカッとさせる気持ちいい生き様。江戸時代を経て、「落語」という言葉が生まれ洗練された明治時代、それから大正、昭和、平成、令和と、江戸の了見は落語に保存され語り継がれてきた。人が人と生きていく上での大事な価値観として、江戸から今に伝わる「了見」に学ぶことがある。落語を熟知し、気鋭のコピーライターとして活躍する三島邦彦が、落語から学ぶ男の心得を語る。
了見がいいと尊敬される
「了見がいい」というのは落語の世界の人々にとって最大の褒め言葉です。そして、「了見が悪い」というのは最大の侮辱でもあります。それは常識というほど客観的ではなく、信念というほど主観的でもない。人々がわかちあっている、それに背いてはいけないという生き方、あるいは判断基準のようなもの。そんな了見を、堅苦しい教訓ではなく笑いの形で教え伝えてくれる。それが落語という演芸です。ニュージェントルという生き方は「了見」に通じるものがあるはず。ジェントルネスが世の中をできるだけ快適に楽しむためのものだとしたら、わたしたちが落語に学ぶことは案外多い気がします。
了見という言葉の語源には諸説がありますが、古くは「了見」ではなく「料簡」という言葉が使われていました。「料簡」とは仏教の「料簡法意」という言葉が大元にあると考えられます。「料」とは考えること、「簡」とは選ぶことという意味。法意というのは仏さまの気持ちという意味なので、仏さまの気持ちを考え、仏さまの気持ちを選ぶということ。つまりは仏さまに従って考えるということを意味する言葉でした。この仏教用語が一般に広まるにつれて、「考え」の部分が独立して使われるようになり、仏教用語とは違う表記が生まれたと思われます。了見という言葉には、「了」という文字には「さとる」、「見」という文字には「かんがえ」という意味があります。
漢字の違いはあれ、江戸時代の町人は文字よりも音声を使うことの方が圧倒的に多かったため、料簡も了見も変わらず「りょうけん」という一つの言葉だったと思われます。ちなみに夏目漱石の小説『門』の中に「どう云う了見だ」という台詞があるので、明治の終わり頃には了見という書き方が一般的だったかもしれません。
ものの見方、考え方を意味する「了見」。どんなに豪華なものを着ても、どんなに大きな家に住んでも了見が悪いと尊敬されず、どんなに貧しくても了見がいいと尊敬される。江戸時代の人々にとって了見とはそれほど重要なものでした。粋であるかどうかということも、つまりは了見の問題だったのです。
たとえば、江戸の人々にとって大事な了見の一つは、嘘をつかないこと。「柳田格之進」という噺は、その硬い名前のとおり筋が曲がったことを許さない性格で浪人になった主人公が、貧しく暮らす中で囲碁を通じて親しくなった大金持ちの家で金銭トラブルに巻き込まれるというストーリー。自らの命に代えても、娘を頼ることになっても主張を変えない格之進。最後は無事にハッピーエンドを迎えるのですが、嘘をつかない潔い生き方への憧れと武士にはこうあってほしいという人々の願いのようなものを感じる噺です。
「柳田格之進」
浪人の柳田格之進は囲碁仲間の家で五十両がなくなったという騒ぎで番頭から疑いをかけられる。潔白を主張する格之進は疑いを晴らすために自害をしようとするが、娘を頼ることで五十両を工面し、本当に五十両が見つかったら番頭の首をはねると伝えて身を隠す。なくしていた五十両は大掃除で見つかり、格之進の潔白が証明される。数年後、再会を果たした主人は無礼を詫び、番頭を助けるために自分が斬られようと申し出る。格之進は碁盤を斬って、二人を許す。
了見は武士だけのものではありません。「文七元結」は、遊び人の職人が借金のかたに娘を働かせることになり、大事な娘を家に取り戻すために心を入れ替えて働き、貯めたお金をたまたま通りすがった男の命を助けるために手放すという噺。見ず知らずの人の命を助けるためにすべてを失おうとする。その一瞬の判断と、一度決めたことを曲げない覚悟。こちらも最後は丸くおさまるものの、この大事なお金と人命を比べて悩み結論を出す場面に了見というものの存在を強く感じます。
「文七元結」
主人公の大工は大工道具を手にいれるために借金をするが、一年間で金を用意するという約束で娘を働きに出すことになる。娘のために一生懸命に働き金を用意するが、その金を届けにいく途中、橋の上で大事な金をなくしたからと死のうとする男と出会う。迷いながらも男に金を渡す主人公。なくしていた金は見つかり、命を助けられた男は娘と結婚することになる。
商人でいえば、「鼠穴」という噺。貧しい兄弟がいて、兄は商売を起こして成功する。弟も商売をするから援助を頼むと渡されたのはたったの三文。この三文、今の金額でいえば100円ほど。つまりはほとんど意味がない。それでも弟はその悔しさに負けず商売を成功させる。物語はその後も続くのですが、兄が弟に与えたのが三文だったことの意味をどう考えるかでこの噺はその味を変えます。この安さは厳しさだったのか、優しさだったのか。ただのケチだと考えることもできれば、弟の自立のための親心だったとも考えられる。落語家と観客の人間理解がともに試される噺です。
「鼠穴」
商売を成功させた兄のところに弟が資金援助を申し出る。快く金を渡した兄だったが、帰り道に弟が中身を確かめるとたったの三文しか入っていなかった。その悔しさを胸に商売に打ち込み、弟もまた立派な蔵をもった屋敷を建てることになる。弟は久しぶりに兄の元を訪ね、酒を酌み交わす。そろそろ帰ろうという弟に対し、何かあったら自分の財産をすべてあげるからまだ飲もうという兄。その夜、火事が起き、弟の蔵は鼠の穴から火が入りすべてを失ってしまった。そこで兄から起こされ、「夢は土蔵の疲れ(五臓の疲れ)だ」という台詞がオチになる。
これらはいわゆる人情噺と呼ばれる重厚な噺ですが、気楽なものも落語にはたくさんあります。余裕というものがジェントルマンの大事な要素だとしたら、すべての落語の中でもっとも余裕を感じるのが「あくび指南」という噺です。タイトルの通り、暇な男が粋なあくびの仕方を習いに行くという内容。ドラマティックな筋はなく、ただひたすらあくびという生理現象を楽しもうとする、どうしようもなく無駄で豊かな時間。落語の独特の世界観や、おおらかな気持ちを味わうことができる噺です。
「あくび指南」
主人公が新しい趣味を探していると、あくびの指南所(=稽古場)ができたということを知る。月謝を払ってあくびを習うのかといぶかる友人を連れて習いにいくと、師匠は四季折々のあくびがあるという。主人公が師匠と粋なあくびの仕方を練習する一方、退屈した付き添いは思わずあくびをして師匠に褒められる。
了見についての言い回しに、「了見が狭い」という言い方があります。それは何を選ぶかの選択肢の幅が狭いということ。視野の狭さ。了見とはそれぞれの考えの視野の広さに関わるものです。「一眼国」という噺は、江戸で見世物小屋をなりわいとしている男が旅の男から一つ目の少女を見たという話を聞き、見世物小屋の出し物にしようと探しに行ったところ、住人がみんな一つ目の国に迷い込み、逆に見世物にされてしまうという内容。怪談話でありながらそこにはこの世の中を大きくとらえる視点、当たり前のことを疑うという視点があります。落語の世界の驚くような視点の自由さ、柔軟性は、観客の了見を広げてくれる効果があります。
「一眼国」
主人公は見世物小屋を商売にしている。ある日、旅のお坊さんから一つ眼の少女を見たという話を聞き、旅に出ることにする。そこではあらゆる人が一つ眼の、一眼国という国だった。主人公は取り押さえられ、「珍しい。見世物にしよう」と言われる。眼が一つであることが当たり前の世界に行けば、眼が二つある人は珍しがられ、見世物になるという噺。
一方で、ゆずれない頑固さもまた落語の人物たちの魅力です。「井戸の茶碗」という噺は、貧乏長屋に暮らす武士からくず屋が買い取った仏像を別の武士が気に入って手に入れ、それを磨いたところ中から小判がでてくるというところからはじまる物語。貧乏長屋の武士は一度手放したものだからと主張し、もう一人の武士は仏像を買ったのであって小判を買ったわけではないと主張する。互いにゆずらない二人の間を右往左往するくず屋。この噺には、貧乏であれ、大金持ちであれ、一度言ったことは覆さないという強い意志と、お金への潔白さに心が洗われる気持ちになります。
「井戸の茶碗」
くず売りが貧乏長屋に住む武士、千代田卜斎の家を訪れて買い取った仏像を、通りがかりに声をかけて仏像を気に入った高木という武士が買取り、その仏像を磨いていると小判が出てきた。仏像を買ったのであって小判を買ったのではないから小判は返すという高木と、仏像を売ったのだから中身は受け取れないという千代田卜斎の間でくず売りは困り果てる。さらには別のお宝まで出てきて事態は混迷を極め、最終的に、高木に千代田の娘を嫁がせることになる。磨けば光るという千代田に対して、「磨くのは困る。また小判が出てきてはいけない」というオチ。
考えてみれば、落語における了見というものとケチというものは相反するものなのかもしれません。ケチな商人が三人の息子を集めて、自分の葬式をどうするかによって跡取りを決めるという「片棒」という噺。
(シェークスピアは「リア王」で王が三姉妹を試すシーンを描きましたが、同じ構造が落語になっているというのもおもしろいところです)。さて、派手な葬式をすることを提案する長男と次男に対して、とことんケチな方法で葬式をするという三男を主人は褒めて跡取りに決めます。そのケチな葬式で人手を省くために死んだ自分が手伝おうというところがオチです。ケチな生き方を薦めるのではなくて大らかに笑う。その視点の広さもまた、落語にはあります。「五貫裁き」という話は、ケチな人間による金銭のトラブルへのお奉行さま、今でいう裁判官の判決にスカッとするという噺です。お金というものとの適切な距離感、清潔さというものを重んじることが了見の一つの要素であると言えます。
落語を語るときに、“落語の国の住人たち”、という言い方をします。そこに生きる人は現実とは少し違う極端な人々。だからおもしろい。江戸の了見が落語の形で保存され今に伝わる。
「片棒」
ケチで有名な商家の大旦那はある日、どんな葬式をするかについて、三兄弟に意見を求め、それに応じて誰が家を継ぐかを決めるという。盛大な葬式を提案する長男と次男に対して、三男はできるだけ金を使わない方法を提案する。大旦那はそれを気に入り三男を跡取りに決める。棺は誰が持つかという話に、「誰かに頼むのはもったいないから俺が担ぐ」というオチ。
「五貫裁き」
主人公の男は真面目に働くことを思い立ち、その元手を募ることにした。相談した大家から一人目は金持ちに行けと言われ金持ちの質屋に行くが渡せるのは一文だと言われ喧嘩になる。奉行所に訴え出たところ、大岡越前守は質屋の主人に対し金銭を粗末に扱った罪で罰金五貫(五千文)を命じる。ただし、五貫を商売の元手として男に貸し、一日一文を質屋を通じて奉行所に返すことという条件。質屋に一文ずつ渡す生活が始まる。質屋は奉行所には主人と名代、五人組という役職の者が揃っていかないと受け取ってもらえない。質屋の主人はこの負担の大きさと、これを一日一文ずつだと十三年かかることに気が付く。示談にすることを願い出て、主人公の男は大金を手にする。
ただ、そのままではなく時代とともに人物描写が工夫されている。今の落語家はどう語るのか、かつての名人たちはどう語っていたのか、そこに通じているものと変わってきたもの。同じ噺を繰り返しているからこそ味わえる繊細な味わいがあります。同じものを繰り返し見ても飽きないのは、それが人間にとって何か大事なことにふれているからという気がします。それをつまりは了見というのかもしれません。
落語を通じて了見を身につけるのもまた、ジェントルであるために必要なことだと言ったら、落語の国の人々に笑われるでしょうか。
三島邦彦
コピーライター。1985年生まれ。主な仕事にNetflix「人間まるだし。」、「再生のはじまり」、「上を見ろ、星がある。下を見ろ、俺がいる。」、Honda F1ラストラン「じゃ、最後、行ってきます。」、など。ACCをはじめとした多数の賞も受賞している。
Direction & Text Kunihiko Mishima | Illustration Koji Mayumi | Edit Yutaro Okamoto |