Art Sets Shoemaking Free
クラフトとアート、 三澤則行のビスポーク

クラシックからの脱却を
叶える無二の靴づくり
クリムトやフロイトがその名を馳せた20世紀初頭。同じウィーンで存在感を放った風刺作家、カール・クラウスはこんな言葉を残している。
“Je größer der Stiefel,
desto größer der Absatz.”
直訳すれば、「ブーツが大きいほど、かかとも大きい」となるが、その真実は、「くだらないものほどよく売れる」という意外なメッセージだ。ドイツ語のAbsatz(ヒール)には、売り上げや販売量という別の意味があるが、ブーツを示すStiefelの「くだらないもの」というネガティブな転義の由来には諸説ある。そのひとつが、職人が黙々と靴づくりを続ける様が、“知的でなく頭も使わない単調な仕事”とみなされたことに端を発する、というもの。その比喩自体は偏見に塗れて敬意を欠くもので、決して今日の価値観では褒められたものではない。しかし、このクラウスの提言は100年を経た大量消費の現代において、ますます説得力を帯びてきているのではないだろうか。
とにもかくにも、そんな言説の生まれた国で、三澤則行はシューメイカーとしての個性を育んできた。今では宮内庁や各国のセレブリティにもビスポークシューズを納めるまでになった気鋭職人が、靴に本格的に傾倒したのはいつだったのか。「大学3年のとき、通学路に靴屋さんができたんです。小さな個人店だったんですが、興味本位で覗いてみたらジョンロブや、十数万円もする靴が並んでいて。価格帯の衝撃以上に、それらの靴の美しさに魅了されました。当然、学生の身で買えるようなものではなかったけど、その場にずっといたいという気持ちになって。だんだん大学よりも、そのお店に通うのが楽しみになりました」。
そんな日々を過ごす三澤だったが、自身の将来設計は依然、白紙のまま。そんなある日、いつも通りの店主との会話の中で“靴づくり”という言葉が何気なく飛び出した。それが、彼にとっての人生の転機となる。「当然誰かがつくったから靴はそこにあるんですけど、それをつくるっていう発想が、概念が僕にはなかった。そこから、靴づくりというものへの興味がどんどん自分の中で大きくなっていきました」。日に日に増していく靴づくりへの憧れ。欲求は一線を超え、夏休みに差し掛かると彼は無策にも浅草を目指して旅立った。しかし、運よく垣間見られた靴づくりの現場で得たのは、自身がそこで働くビジョンではなく、靴づくりのすべてを学ぶには学校へと行く必要があるという気づきだった。そうして大学在学中から製靴の学校へと通い初め、以降の2年半をそこで過ごすことになる。卒業するころには、自身の技術にそれなりの手応えを感じていたという。「ひとつひとつの工程に、自分なりの目標時間とか技術的な到達点を設定して、そこに向かってアスリートのように反復したんです。昨日より5分早くなった。しかも、きれいに仕上がってるな、と。それを延々と繰り返しました。ただただ、無我夢中に」。

技術と知識は
修めれど
そこで得た知見と自信を引っ提げて、卒業後の三澤はビスポークシューズの大家として名を馳せていた山口千尋氏のアトリエの門を叩いた。技術が認められ、工房では山口とペアを組んでビスポークに携わることになる。そうして4年の歳月が過ぎた。元々あった技術への確信と、巨匠の仕事に現場で触れ続けたという自負。いよいよ、独立の二文字が三澤の頭には浮かんできた。順風満帆に思えるキャリアアップ。しかし、そこで彼は思いがけない挫折を味わうこととなる。「自分でお店をやろうとなると、当然“三澤らしい靴”を発表する必要があるんですよ。だけど、いざそれをデザインしようとなったときに、まったくイメージが出てこなかった。自分はこんなに靴づくりが上手いのに。やれと言われたことは、誰より高いレベルで達成できるのに。自分らしいデザインはひとつも描けない。そんな自分に、本当に失望しました」。28歳の彼は、そんな失意のどん底にいた。宮城の小さな町で生まれ、靴づくりを志してからは外界から隔離された工房の中で大半の時間を過ごす。自分のこれまでを振り返って、いかに狭い世界で生きてきたのかを痛感したと三澤は言う。「海外にも行ったことがないし、飛行機に乗ったこともない。自分の世界を広げて、もっといろんなことを知らないとデザインはできないと思ったんです。それで、ウィーンに行くことを決めました」。
日本で王道のシューメイキングを経験していた三澤が求めたのは、より深い靴づくりの世界。靴づくりの盛んな国は少なくないが、中でもウィーンにはマニアックな工房があるという話は耳にしていたし、良い評判も聞こえてきた。偶然人の縁もあって、彼はオーストリアへと旅立った。最初は工房の人々は訝しげだったようだが、熱心さが伝わったか、次第に三澤は受け入れられていった。工房へ通うのは、週に3回。残りの4日と、工房での作業後はできるだけ美術館に足を運んだ。「ウィーンといえばシーレも有名ですが、特にクリムトに心酔するようになって、もう毎日のように見ないと気が済まなくなっていました。いろんな時代のものを見たけど、結局1900年前後のそうしたアートが特に自分の琴線に触れて、工芸なんかにもハマっていきました。きっと、手づくりの全盛期みたいなものだったからなんでしょうね」。そんな日々を送るうちに、彼は物心ついたころに抱いた最初の夢を思い出した。「昔は画家になりたいと思っていたんです。3歳ぐらいから絵を描いていたし、ものをつくっていた。だけど、中学くらいになると、いつの間にかそういうことをやらなくなっていたなと」。

童心に戻って見つけた
オリジナリティの答え
独立を志した際には見当たらなかった彼だけの色は、すでに自分の中にあった。以降、三澤はビスポークのシューメイキングと並行して、レザーを主材としたアート制作も行うようになる。それは突飛なことではなく、ビスポークの職人として日々手を動かし続けてきた自身の営みの、延長線上で自然に始まった。「どうしても靴づくりだけをやっていると型にはまってしまうし、そこから逸脱しにくくなってしまう。でも、アートはアートで、普段の靴づくりとはまったく別なんだと思うことで、一気に自由になれた。履けてもいいし、履けなくてもいい。そんな気持ちでつくり始めると、意外と新しいものができるんです」。
靴づくりは、伝統的だが保守的な文化だ。道具としての実用性や技術という絶対的な正義があって、それが遊び心や独創的なアイデアを否定する場面を、三澤は職人としての半生で何度も目の当たりにしてきた。「レザーシューズって、“こうあるべき”というのが強すぎて、そこからずれたことをすると異端と見られてしまうところがいまだにあるんです。靴には定型というか、クラシックな型が数十種類くらいあるんですが、それを逸脱することが本当に難しい。難しいからこそ、職人はみんな延々と同じ型を繰り返してきました。僕も二十代後半のときは、「オリジナリティを」と言われても、どうしようもなかった。定型のものは精巧に、高いレベルで再現できるけれど、デザインができなくてずっと悩んでたんです。職人は誰しも、そこに挑戦はしてると思います。だけども、多くの人が無理だと諦めてると思うんですよね。オリジナリティのある靴をつくるっていうのは、それくらいチャレンジングなんです」。
人との会話、靴との対話
それが次のアイデアに
先のクラウスの言葉が、頭をよぎる。職人が単調な反復作業に疑問を感じたときに、きっと靴には新たな可能性が宿るのだ。もちろん、個人個人に合わせた歩きやすさや高いフィット感を提供できることは、ビスポークとしては大前提だが。「ほとんどの人が自分の足に合わない靴を履いていると思います。でも、例えばスリッパってあんな構造なのに履いてて脱げないですよね。それは体が歩行の仕方や姿勢でバランスを取ってるということ。それが続くことがどれだけ体に負荷をかけるかは想像できると思います。つくり手としては、一度、本当に自分の足にぴったりと合った靴を履くっていう体験をしてほしいです。無駄なスペースがない、包み込まれるような感覚を」と三澤は話す。アート制作が三澤にもたらした自由なアイデアと、磨かれたさらなる技巧。現在第6段まで登場しているミュージックシリーズは、その結実と言える代表作だ。音楽や楽器に着想を得たデザインとディテール。それが生まれる契機になったのは、彼のとある客とのやり取りだった。「耳の聞こえないお客様が自分の靴を履いてくださって、『音楽が鳴っているみたい』と言ったんです。それにハッとさせられて。靴が音楽を奏でるか…確かにな、って。それで、音楽を題材にした靴づくりにチャレンジしてみようと思いました」。ピアノにホルン、ヴァイオリンにクラリネット。そこからは多彩な楽器の個性が、足元に宿っていった。もちろん失敗もあった。アコーディオンを模して、サイドエラスティックを配した1足は、出来上がりに手応えはあった。しかし、数日後、三澤はこれを不採用とした。


かつての憧れは
今も褪せることなく
「何日か経って改めて見てみると、いかにもデザインをしているなという感じがしたんです。もちろんしているんですけど、本当にうまくいった靴はデザインにドヤ感がないというか、スッと入ってくるんです」。ノイジーなつくり手のエゴではなく、耳を傾けるべきはその靴を履く人と、自分の心の声だけ。そこから生まれる自由なアイデアも、時には制約すらも、新たな創造性の糧として。三澤が敬愛するサルヴァトーレ・フェラガモが、そうだったように。「一番好きなつくり手です。レインボーサンダルという彼の代表作があるんですが、それが生まれた戦時中、鉄は武器に使われてしまうので一般に出回ることがほとんどなかったそうです。靴にも鉄の芯が必要だけど、それができなかった。そんななかで、フェラガモはソールを分厚くすることでその形状を維持しようとしたんです。その分厚いソールをレインボーにすることで、辛い状況のなかでも夢や希望があるものを生み出したんですよ。そのエピソードも最高だし、今見ても類似のものが見つからないくらいに新しい。僕も、そういうつくり手でありたいです」。かくして職人たちは、日夜自問自答を繰り返しながら、アイデアと熱量とで新たな地平を切り拓く。そうして生まれるシューズこそが、カール・クラウスの悲観も覆す、希望の一歩となるはずだ。

三澤則行
1980年生まれ、宮城県出身。独自の靴づくりを志し、ウィーンへ渡航。帰国後には映画祭の会期中のカンヌでオリジナルモデルを展示・発表し、スパイク・リーをはじめとする著名人たちからオーダーを受けている。現在はアートとビスポークという両軸から靴づくりと向き合い、工芸品のような美しいピースを多数制作している。ヒップホップが自身のバックボーンのひとつで、ナズの『I Can』が私的アンセム。
| Photo Masayuki Nakaya | Interview & Text Rui Konno | Edit Ayuko Hashimoto |












