Daichiro Shinjo

宮古精神文化論 [新城大地郎/アーティスト]

パリ ギャラリーで宮古の古謡を歌ってくれた與那城美和。宮古は文字がなかったため昔話は民謡として伝承される文化を持つ。その意味では與那城は歌い手だけでなく歴史の語り部ともいえる。彼女が宮古の古謡に目覚めたのは、歌い手がいなくなった幻の名歌「白鳥ぬアーグ」との出会いだったという。白い鳥が卵を多く産むのだが、白い小鳥が生まれる中で、一匹だけ羽の赤い小鳥が生まれ、自分だけ羽の色が違うことを嘆くその小鳥に対して母鳥が、「嘆いても仕方がない。全てを受け入れなさい」と諭すというストーリーだ。新城が宮古の精神性として考える「抗わない」にも通ずる、宮古を生きる島民の共通意識を感じさせられた。

梅雨入りが迫る5月下旬。東京から3時間のフライトも着陸体制に入り、厚い雲を抜け先に見えてきたのが宮古島だ。機内から搭乗橋に降り立った瞬間に、じっとりと粘り付くような湿度の高さを肌で感じ、はるか南の地に来たのだと実感する。宮古は古くは「ミャーク」と呼ばれ、神や精霊が住む場所に対して「人が住んでいるところ」、「現世」、「楽園」を意味している。この世とあの世の境を思わせる名を冠し、さまざまな秘祭や御嶽(守護神が祀られている祈りの場)など神秘的な独自の文化を持つこの島は、沖縄本島とも異なる文化圏だ。そんな宮古の文化や精神性を探るべく、この地で生まれ育ち、国内外で活躍するアーティストの新城大地郎を訪ねた。

ひとりでは生きていけない
助け合い、思いやる心が必要

新城は宮古で400年以上続く臨済宗龍寶山祥雲寺という禅寺の家系の生まれで、その寺の僧侶であり、民俗学者として宮古の文化探究も精力的に行なった岡本恵昭を祖父に持つ。幼い頃より禅の思想を祖父から学び、ものごとに「なぜ」を問う禅問答を繰り返していたという。そうして身につけた型にはまらない精神が、同じく幼少期から熱中し続ける書道のスタイルと結びつき、書道の域を超えた現代アーティストとも呼べる新城大地郎を生み出した。彼は宮古で生まれ育った影響をこう話す。「18歳から宮古を一時的に離れて本州やロンドンで生活をしましたが、どれだけ遠くへ旅をしても最後は宮古に帰ってくるんです。海亀が自分の生まれた砂浜を本能で覚えていて、世界中の海を泳いだ後は、生まれた砂浜に戻って卵を産むようなことです。ロンドンにいたときも、ロンドンの景色を眺めながら心では宮古を見ている気持ちでした。自分の世界の中心は宮古にあり、宮古には変わらないものがあるからこそ、変わりゆくものに敏感になります。今の世の中は効率やスピードを重視しすぎで、人間が機械的でまるでロボットのようになってしまっていると感じることが多いです。一人でも生活や仕事ができる時代になりましたが、人間は本来一人では生きていけない動物。だから心のバランスが崩れてしまう人が年々増えているのではないでしょうか。宮古は島国で海に囲まれているし、大雨や台風、干ばつなど自然災害も多い。単独では生きていけない環境だからこそ助け合って生きてきました。故に島としての共同体意識が強く、人を思いやる心が溢れています」。

ありのままを受け入れる

琉球王国は日本の一部として沖縄県となり、太平洋戦争を経てアメリカ統治下に、そして1972年に日本に返還された。とりわけ宮古は琉球王国から人頭税(男性は粟を、女性は宮古上布を納付)という過酷な税制を課されていた歴史を持つ。自然だけでなく権力からの抑圧も受け、常に変化を繰り返してきた。「宮古の精神はずっと変わっていないと思います。それは『抗わない』こと。祖父から学んだ精神でもあります。人も、自然も、権力も全て抗っても仕方がない、受け入れることからすべては始まる。ありのままを受け入れた先に真実があるという考え方です。変化こそが歴史であり、現在はただそこにあるだけなのです。台風なんて抗っても仕方がないから、昔の人は屋根が飛んでも気にせず、蝋燭に火を灯して酒を飲んだといいます。台風が去ったら屋根を直せばいいんだと。なにごとも急いで強引に進めようとするのではなく、待つことが大事なのです。海に出るときは波の動きをみて頃合いを待つことと同じです。そういう流れに身を任せる感覚は、宮古のような自然豊かな環境で生きていると自ずと冴えていきます。でも都会のようなコンクリートジャングルで過ごすと鈍くなり、ものごとを強引に進めようとして歯車が乱れてくる。だから待つこと、抗わないことが大事なのです。なにも特別なことではないですよね。2022年にパリギャラリーで個展を開催したときは、『雨ニモマケテ 風ニモマケテ』というタイトルをつけ、宮古の風土からくる『抗わない』という島の精神性をテーマに、宮古上布に使用される琉球藍を使用した作品を展示しました」。
自然とともにある生活だからこそ自然への畏敬の念は高まり、アニミズムとなって宮古では御嶽として崇められている。「御嶽は神社やお寺、宗教でもなく、土地の神様への信仰です。例えば安産祈願の御嶽は何百年も前にお産が上手な産婆さんが住んでいたことの縁だったりします。新たな生命が多く生まれた場所だから、そのことにあやかった御嶽となるのです。織物が上手な人が住んでいた場所が御嶽になると、織物をする人は『いい織物ができるように』と祈りに訪れます。御嶽は先人やその場所の歴史への純粋な信仰なのです。だから御嶽があると素通りはできない。島の人の多くは立ち止まって挨拶をしていきます」。

国指定重要文化財·史跡である「大和井」。宮古は山がないため川がなく、深刻な水不足問題を昔から抱えていた。大和井は1720年に掘られた井戸だと考えられており、首里王府派遣の在所役人など一部の上層役人だけが占有して、一般庶民には開放されなかったという。当時の宮古を生きた島民が、いかに中央権力の圧力を受けて苦しい生活を強いられていたのかと胸が痛む。

宮古の中でも特異な文化や信仰が残るといわれる狩俣集落。白装束に身を包み、植物のツルを巻いて作った大きな冠を被ったおばあたちは、写真に写る赤い瓦屋根の奥に見える森の中へと入っていき、飲まず食わずで3~5日間にも渡って神に祈りを捧げる祖神祭ウヤガンを行う舞台でもある。男性や部外者は見ることを許されず、村の女性のみで行われる祭りで、「スサ」と呼ばれる歌を歌いながら集落を回ってお祓いをし、地域の繁栄や豊作を祈願するという。

日本三大上布の1つである宮古上布。苧麻(ちょま)という麻を素材にするのだが、100%手作りの苧麻糸を績んで織る布は現在宮古上布以外にほぼ類を見ない。苧麻の栽培から糸作り、絣の模様作り、藍染め、織り、仕上げとなる砧打ちまでの工程を各専門の職人が行い、その全ては宮古の島内で完結している。各工程が繋がることで一反の宮古上布が織り上がるのは、宮古の共同体としての生き方を表しているようだ。宮古上布の藍染めは「黒染め」と言われるほど藍を黒くなるまで染め重ねる。黒しか使わないと決めている新城が宮古の色を使おうと考えて思い浮かんだのが宮古上布の黒に近い青だった。実際に宮古の藍で書を書くことにより、表現の世界が広がったという。取材に協力してくれた宮古織物事業協同組合が行う展示会(11月に宮古で、2月に東京にて)で手に取って見てほしい。

新城の祖父で、禅僧であり民俗学者だった岡本恵昭が記録した宮古の1970年代の写真の数々。秘祭ウヤガンにも立ち会っている大変貴重な記録ばかりだ。宮古の祭司文化が一般的に注目されるようになる以前から岡本は地元である宮古の祭司を研究していたという。秘祭を部外者として見に行くため、「坊主が来た」と言って石を投げられたことさえあるというが、尊敬を持って接したため記録できたようだ。自身は禅僧として仏壇に向かってお経を唱える身でありつつ、白装束に身を包んだ女性たちが別の神に祈りを捧げる姿を見つめ続けた岡本。「神様はどこにいるの」という新城の問いに対して、「神様は神棚にはいない。側にいる」と答えたという。
抗わず、待つ
=雨ニモマケテ 風ニモマケテ
宮古の歴史を伝承する
アーグ(古謡)

先人や土地への信仰心から生まれる御嶽。宮古の各集落には大小関わらずさまざまな御嶽があると言われている。身近に土着的な信仰対象が根付くことは生活に規律と安心感を与えてくれるだろう。また宮古は昔は文字を持たなかった島で、歴史や過去の出来事は口頭伝承されてきた文化を持つ。たとえば人頭税を納めるために必死に農作業をしていたときには畑で歌を歌いながら作業をし、自分たちで心の豊かさを育んでいったという。そのときの心情などが歌として語られ、島の精神性として受け継がれているのだ。「雨が降らないと作物が育たない、つまり食べることもできない、生きていけない、という辛い心情や、納税するための宮古上布を織るとても大変な作業の中で、織物が役人に認められますように、といった心情を歌っているものが多いです。自分たちではどうにもできないからこそ、祈るしかない。生活の中で生まれる感情を、言葉を通して歌にすることで励みになり、満たされていたんです」。
宮古には今もなお多くの歌い手が活躍している。中でも新城は與那城美和さんの歌声に心奪われるのだという。「美和さんの歌を初めて聴いたのは知人からもらったCDでした。おばあの家に向かう道中に車で聴いていたのですが、ちょうど家が見えてきたときに小さい頃におばあが歌ってくれていた子守唄が美和さんのCDから流れてきて。その瞬間に当時のおばあの声や思い出がフラッシュバックして号泣してしまったんです。一般的な子守唄は子供を早く寝かしつけるために怖いストーリーとなっているものが多いのですが、宮古の子守唄は子供を褒める内容です。大きくなったら偉くなって、島を出て外の世界で頑張り、また島に帰ってきてね、というような。宮古では島を出て勉強や仕事をしている人のことを『旅に出ている』と表現します。つまりいつかは戻ってくる、と信じているのです。島国らしい考え方だなと思います。
外国人の友人の家に泊まった時に美和さんの歌を流したら、『これは誰の歌?』と聞かれました。美和さんが歌う宮古のアーグは、宮古の古い言葉で歌っているから、僕でも完全には聴き取れない。でも心に響いてきて、その歌が生まれた当時の宮古の情景や気持ちを想像できるような歌なんです。だから言語を超えて世界中の人が共感できるのだと思います。宮古のアーグにはそんな原始的な力があると感じます」。

宮古の文化を耕す
パリ ギャラリー

「人々の精神をより豊かにするために、宮古の文化を耕す」というテーマでパリギャラリーを2022年にオープンさせた新城。瞬く間に話題となったギャラリーだが、現在までには紆余曲折もあったようだ。「オープン当初は島外アーティストの作品をクールに見せられたら人の集う良い場所になるだろうと思っていました。けれどそれは勝手なプライドだったと反省しています。宮古の文化を耕すというコンセプトでスタートしたのに、宮古のローカルにきちんと根を下ろせていなかった。もちろん様々なアーティストを招聘した素晴らしい展示をしていきたいのですが、東京にあるギャラリーとは訳が違うので、宮古の風土や島のリズムを尊重しないといけないと気づいたんです。だから今はパリとしてキュレーションする展示だけでなく、一般開放して地元の方が撮った写真を展示したり、美和さんに歌いに来てもらったりと、もっと間口の広いスペースにしたいと思っています。表現が集う場所にして、島の人が文化や芸術に触れるサロンになるようなきっかけを作りたい。宮古へのリスペクトを持って、自分が愛せる場所、島の人や島に来る人からも愛される場所を作りたいんです」。宮古は文字を書く文化が昔はなく、出来事や歴史を與那城さんのような歌い手が歌として伝承してきた。文字がなかった宮古の地で、文字を書いて宮古の精神性や文化を伝えようとしている新城の表現活動は、宮古の新たな文化であると言える。
今回の宮古への旅で「スデル」という言葉に出会った。「再生」や「脱皮」を意味する言葉である。宮古を生きる人との会話や文化、精神性に触れた経験はこの言葉を体現するようで、自分の心が洗われたような、生まれ変わったような感覚と繋がった。それは純粋な人間の美しさが宮古には溢れていたからだろう。新城が好きな言葉として作品の題材にもしている「空(クウ)」の禅的な思想にも通ずる。「なにもないけど、すべてある」。それが宮古の魅力だと感じた。

新城の後ろに見えるのが、彼の祖父である岡本恵昭が禅僧を務めた祥雲寺。400年に渡って宮古の歴史とともにあり、島の中心として島民が寄り添う場所でもある。

新城の高祖父(祖父の祖父)のポートレート。彼もまた祥雲寺の禅僧であり、威厳ある佇まいに徳の高さを感じさせる。

「空」という字を東西南北に書いた新城の作品。「ダンスしてるみたいですよね。空(クウ)は禅の哲学でもあり、『あるけどない。ないけどある』を意味します。好きな言葉で、考えるきっかけになります(新城)」。
Photo Masato Kawamura Interview & Text Yutaro Okamoto

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