THE THINGS STUSSY BUCKET HAT

野村訓市が被り続ける ステューシーのハット

多分死ぬまで被ると思う。
そんな気がする。
野村訓市

今までいろんなブランドの服をたくさん着てきたけれど、一番最初に着たブランドって何だろう?ワークウェアとかデニムとか、いわゆる元々はファッションの文脈ではなかったものではなく、ファッションブランドとして。となると、俺にとってそれはJIMMYZとステューシーになる。どちらも昔、スケーターが着ていて、スケート雑誌の広告を見て知ったもの。時代はまだ80年代で世の中全体が浮かれているというか派手な時代だった。髪型もそれに合わせるサングラスも、シャツもパンツも全て派手。派手じゃなければ服じゃないのか?っていうくらい派手だった。その中で最初に手を出したのがJIMMYZのパンツ。これはクリスチャン・ホソイという日系のスケーターがコンバースのチャックテイラーのハイカットと合わせて履いていたわけですよ。腰のところがベロクロのベルト仕様になっているテーパードされたコットンパンツで、こんなの他のどこにもないってんで、ハワイに行った友達にゲットしてもらったのが最初なのだが、そこで新たに知ったのがステューシーだった。スラッシャーか、トランスワールドに載っていた広告、それは他のブランドと違いどこかルーズでおしゃれだった。これは一体どう読むのか?しばらくはスタッシーと呼んでいた気がする。誰も知らなきゃ、読み方もわからんのだから確認のしようもない。いつの頃からこれをステューシーと読むんだと認識したのかもうすっかり忘れたけれど。これもまたハワイに行った友だちがお土産で買ってきてくれたのが最初だったと思う。今も売っているがビーチパンツというウェストを腰で紐で結ぶタイプのパンツで、現行品よりもテーパードが激しく、また薄手のピーチコットンだった。これには短パンもあり、俺は激しく愛用するようになった。それとモックタートルのロングスリーブ。これはタートルネックなのだが、かなり低めに、そしてワイドに設定されていて、シャツの上からも着れたりするもので、なんでしょうね、お洒落の自己満足度のメーターを格段に押し上げる一着だった。考えてみると、ステューシーといえばのロゴTとかは着なかった気がする。ちゃんとした服、他にないようなものをたくさん作っていて、俺はそれを愛用していたのだ。高校生となり、時代がアメカジ、渋カジに染め上げられたとき、ステューシーの服を着るというのはかなり浮く感じだった。なにせ皆が501を履いて、エンジニアだコルテッツだを合わせるようなときに、テーパードのコットンパンツは下手したらボンタンのシルエットなわけですよ。カリフォルニアじゃどうだか知らねーが、アメリカンつったらストレート、タイトめだろ!という風潮にはまるで合わなかったわけ。それがアメリカに1年ばかり留学して帰ってくると東京は、渋谷は地殻変動でもあったのかというほどまた変わっていた。友だちからの手紙で流行りが変わったということは知っていたのだけれど、「紺ブレ、紺ブレが流行ってる。キレカジ。キレやすいのか?」「ベルボトムが流行っている。ヴァンソンの革ジャンも流行っている」想像しようにも難しい単語の羅列に俺の頭は真っ白になっていたのだが、要はまぁ細分化されてきたわけね、いろいろと。
そこにサーフ系だかクラブ系だか忘れたがステューシーもあった。そう、自由が丘という松田聖子が手がけるフローレンスセイコの店しかない、ファッション不毛の地にステューシーの東京店がオープンしていたのだ。なぜ、自由が丘?そこにはきっと深い理由があったのだろうがとにかく日本でも買えるようになったのだ。行きましたよ、ここと代官山の店は何度か。そんなに服を買う方では元々ないのだけれど、Tシャツ意外が多かったような。ピーチコットンの素材感が好きでカバーオールみたいなジャケットと揃いのビーチパンツのショーツとか、スウェットでできたベストとか。なんだろう、その頃は丁度グランジが出てくる前夜って感じだったんだが、その辺とかミクスチャーロックみたいなのにもどっぷり浸かってもいまして、なんか当時のステューシーは食い合わせが何気に良かったんだよね。ザ・西海岸!って感じが。だから基本、あまり人気が無そうなのばかり手を出してたかもしれない。お椀みたいな帽子とか。今も全部持っていたら、黒タグだったか忘れたがちょっとした金に換金できたに違いないが、それでもいくつかは残してある、旅に持って行ったりしていたから。
当時はもちろん知らなかったが、創業者のショーンが98年に会社を売ったあとに、彼とハワイで知り合い、それから定期的に会うようになった。今年もコロナ以来、ひさびさにパリのカフェで待ち合わせて会った。今年70歳になるとは思えないくらいのパワフルさで、マシンガントークについていくのがやっとだったが、会う度に昔のことを聞くといろいろと話してくれる。どうやってブランドを始めたとか。ショーンは最初、サーフボードを削ってアクションスポーツ系の展示会にブース借りて出店していたらしい。飾るものがないので、自分で書いたロゴをプリントしたTシャツで壁を埋めたら、ボードじゃなくてTシャツばかり売れたらしい。するとすごいオーダーをつけてくれる店がニューヨークにあることに気付いて、どれどれと見に行ったと。それまでカリフォルニアのビーチに張り付いていたサーファーのショーンにとってニューヨークは何の接点もない街だったらしい。それでその卸先というのが「セックス&ザ・シティ」のスタイリングで有名なパトリシア・フィールドがやってる店だった。で、そこに置いてあったギャルソンのシャツやブルース・ウェバーの手書きのフォトTとかを見て衝撃を受けて自分でも服を作り始めたらしい。ブルース・ウェーバーのフォトTが、ステューシーのあの手書きと写真を合わせたシグネチャーの元ネタだと聞いたときには、何ですかね俺の手は少し震えたね。ヒップホップのサンプリングみたいな、すでにあったものからさらに良いものを作るっていうストリートカルチャーというかファッションの起源を本当に実感した気がして。
というわけで、今のブランドにショーンは関わってはいないけれど、彼がいた時から作っている定番が好きでまだ着ている。ビーチパンツとかね。でもその中で一番愛用しているのがバケットハットかもしれない。これも結構昔からあるアイテムで普通のコットンで出来た普通のハット。ロゴもそんなに大きくない。俺はキャップが似合わないからほぼ被ったことがない。耳がでかいので被ると小さい頃は江川と言われたものだ(死語)。いわゆる立ち耳って奴。でも何か被りたいじゃないですか?特に雨が降っても小雨なら傘はささないのが好きな俺、けれど天パーで濡れると髪がさらにクルクルとしてしまう。となると帽子が必要じゃないですか?そこで役立つのがバケットハットなのだ。余程の二日酔いじゃない限り、パンツのポケットにはクルっと丸めてから畳んだバケットハットを常に入れてる。それで雨が降り出したら被るわけ。畳みシワなんて濡れてるうちにあっという間に消えるし気にもならない。自分の格好に合わせるために何色も持ってる。黒いスラックスや革ものを着るときは黒いハットを。デニムに白Tみたいなときにはベージュや水色を、みたいなね。大好きな作家だったハンター・S・トンプソンもバケットハットを被っていた。俺も多分死ぬまで被ると思う。そんな気がする。

野村訓市
1973年東京生まれ。編集者、ライター、内装集団Tripster主宰。J-WAVE『Traveling Without Moving』のパーソナリティも早、8年目になる。企業のクリエイティブディレクションや映画のキャスティングなど活動は多岐に渡る。

Illustration T-zuan20:18 – 21:45
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