01 Fumi Nikaido
ルーツを巡る 故郷 沖縄への里帰り [二階堂ふみ/俳優]
俳優、二階堂ふみ。感受性豊かな人間力と芯の強さが伝わってくる演技が魅力で、国内外で幅広く活躍している。そんな二階堂が生まれ育ったのは、古き良き沖縄らしさや人情が色濃く残る沖縄県那覇市の壺屋というエリア。活動の拠点を東京に移すまでの幼少期や10代を過ごした沖縄が二階堂の原点だ。自身のルーツを辿るため、二階堂は故郷沖縄をロードトリップした。
沖縄は生活を通して
“当たり前”を教えてくれる場所
二階堂自ら運転して案内してくれた今回の旅。小学生の時にスカウトをされた古着屋アンクから、大人になって行くようになった老舗のオーセンティックバー、バーバリーコーストまでさまざまなルーツを巡った。その旅を経て沖縄への想いをこう話してくれた。「二階堂という名字は沖縄にはもともとないらしく、小学校では『ナイチャー(沖縄の人ではない)』と呼ばれたこともありました。母は沖縄返還(1972年5月15日に沖縄県の施政権がアメリカ合衆国から日本国に返還されたこと)の前に生まれ、激動の時代で育った人でした。アメリカの統治下で育ったから生活の中にドルがあったり、アメリカと沖縄の文化が混ざり合っている時代を過ごしていたんです。私自身は東京や海外をはじめとした外のものに憧れて触れていましたが、その時間と反比例するように沖縄の魅力を多く見過ごしていたと思います。そう気づいた頃には昔の沖縄はどんどん失われ、今では帰ってくるたびに景色の変わり様に寂しさを感じます。だからこそ今は沖縄のことをもっと知りたいですし、沖縄の言葉を勉強したいと思っているんです。沖縄の言葉を知っていたら、大好きだったおばあちゃんともっと話すことができたんだろうなと思うし、今を生きる人に沖縄の話をいろいろ聞いておきたいんです。
人とのつながりが
沖縄の美しさ
なにごともそうですが、自分がそのときに気づけなかったことに人は惹きつけられるものですよね。今は沖縄で生まれ育って本当によかったと感じています。沖縄には社会的立場も含めて全く異なる人がたくさんいた。それが当たり前の環境なので、人種や性別、大人と子供も境界がなくて、みんなが一体であるようなすごくエネルギーのある社会なんです。多様性が叫ばれる現代よりもはるか前から沖縄はそういう場所でした。両親は仕事で忙しい人だったので、三和荘のファミリーをはじめとした近所の人たちに面倒を見てもらったり、飲屋街で働いていた親戚のお店に預けられたりと、小さい頃から大人の社会と触れ合っていました。だから子供と大人の違いも自分の中にはない。アカデミックな場所で学ばなくとも、沖縄は生活を通して“当たり前のこと”を教えてくれたのです」。沖縄は琉球王朝時代やアメリカ統治下時代、基地問題など、日本のほかの地域とは異なる背景を持っていることは事実。大きな変化がほかの地域よりもあったからこそ、沖縄に生きる人々は変化に流されぬよう、手を取り合ってコミュニティのつながりを強め、多様性を受け入れる土壌を育んだのではないだろうか。
「私がしている俳優という仕事は、仕事の本質は変わらずとも、現場や周りの環境は常に変化していきます。そういう変化が好きですし、それが楽しいのですが、一方で沖縄に帰ってくると変わらないものがまだ残っていて安心します。私が今住んでいる東京は、したいことや一緒にいたい人を選べる、取捨選択をしやすい街です。地方と呼ばれる地域は逆に取捨選択をしづらい部分があるかもしれませんが、その分だけコミュニティのつながりに強さがある。そういう共同体の温かさを沖縄に帰って再認識することはとても大事だと感じています。東京で出会った人たちとこうして一緒に沖縄に来て思い出の場所を巡り、自分を愛してくれている場所が沖縄には多くあったんだなと改めて気づくことができました。感謝しています。いい旅だったなぁ」。
沖縄のことを深く知って
好きになってほしい
自分には帰る場所がある。そう思えるだけでどれだけ人は安心できることだろうか。二階堂に同行して過ごした二日間は、お店や飲み屋など行く先々で素敵な出会いの連続だった。自然や文化の美しさはもちろんだが、人情味ある美しい心を持った人が多くいることこそが沖縄の魅力だと気づかされる。「その場所に住み続けている人は変わらなくても、外に出ていった人は外の感覚になっていく。沖縄から外に出た私が、沖縄の人には変わらないでほしいなどと言える立場ではないですし、それは単なるエゴだとわかっています。でも変えない方がいいことも絶対にあるのではないでしょうか。変えるということは利害関係や外部の都合が原因となることが多いと思いますが、土地のことを真剣に知ろうとして、地元の人と関係性を築いた上でなければ望ましくない結果になりかねないと思います。イラク戦争があった頃に、母の周りでも反米意識が高まり基地反対派も多かったようです。でも本当は心で考えるべきことだと思います。当時母が目の前を歩いていた若い米兵の男の子を見て、『あの子達が明日にも戦場へ行くと思うと、自暴自棄になりかねない気持ちを私が理解できるなんて言わないけれど、私自身もどう気持ちを整理すればいいかわからない』と言ったことがありました。それが真実ではないでしょうか。思想や宗教など関係なくて、そこにいる人の人生が大きな力に左右されてしまうことが問題なのです。システムに飲まれるのではなく、目の前にいる人こそ大切にしないといけない。沖縄はオープンな部分もあれば、センシティブな部分もある。ここ10年間の変化だけでも目まぐるしいですし、限界を超えてしまって無法地帯化していると感じる場面を目にすることさえあります。でも保守性と革新性のバランスを丁寧に調整しないと、文化を守ることはできない。そういった歴史や背景を知った上で沖縄に来てもらうと理解が違いますし、なによりも楽しんで好きになってほしいと心から思います。人と繋がることが、沖縄の何よりも美しい文化体験なのです」。
今回の旅でとりわけ思い出深いのは、旅の宿であり、二階堂が幼少期から近所の付き合いであるビジネスホテル 三和荘とホストファミリーの温かなおもてなしだった。思い出話に花を咲かせる彼女らの姿に、長く続く交流関係がいかに人生を豊かにするかと改めて感じる。「ふみは小さい頃から頭の冴えてる子だったのよ」と三和荘のオーナーが話してくれたが、事実今回の旅で思い出の場所を巡ったり、路地を曲がって景色が変わるごとに二階堂は記憶を鮮明に蘇らせて、当時の様子を丁寧に話してくれた。道中に乗ったタクシーのドライバーのおじさんとも二階堂はすぐに打ち解け、「昔はここに防空壕があったね。桜坂の飲み屋街も景色が変わってしまったなぁ…」など昔話で盛り上がっていた。そしてそのおじさんは別れ際に嬉しそうにこう言った。「沖縄の昔のことをこんなにも共有できる若い子は久しぶりだよ。お姉ちゃんと話せて楽しかったさー。沖縄もまだまだ捨てたもんじゃないね。沖縄にはいいところがいっぱいある。あんたら、こういう人を大切にしなさいよ。生き証人だからね」と。
「自分を愛してくれている人がいると
改めて気づきました。良い旅だったなぁ」
Photo Masato Kawamura | Hair & Make-up Aiko Tokashiki | Interview & Text Yutaro Okamoto |