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COLUMN
about New Classic
Kunichi Nomura

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Kunichi Nomura

何が必要で何が不要かを知った

 
 

PM 15:22 – 18:25
8th March 2022 at Tokyo
From morning
4 cup of Americano
2 box of Marlboro gold soft pack

 
 
俺は飽きっぽいので、いろんな仕事を同時にやるということをずっと続けてる。常に締切があったりなんだりで、ちょっと落ち着くという時期がないから疲れるといえば疲れるのだが、それでも飽きるよりかはマシだ。一つのことをずっとやっていると煮詰まるというか、隣の芝は青く見えるというやつで、自分の仕事に嫌気がさしてくるのだが、いろんなことをやっていると丁度いい塩梅に違うことをやることになるので、それぞれの仕事がずっと面白く感じられる。
 
そして、一つの仕事をやっているうちに、次にやらなけらばならない全く違う仕事のアイディアが浮かんだりするので一石二鳥なのだ。あらゆることは繋がっているんだなぁとつくづく思うのだが、それは大体がクライアントワークだからかもしれない。世の中に求められるものを作る、その先にはお客さんがいるというところで共通項があるのだから。そして俺は、その自分が手がける仕事の全てが編集業だと思っている。その理由は以前も書いたが、この世にはもうありとあらゆるものが存在していて、その中でクライアントワークというのは相手の要望、世間の要望、自分たちのアイディアというものをどの角度で、どう編集していくか?ということに尽きるからだ。
 
その仕事の一つに内装業がある。クライアントさんは大抵が商業施設で、それは飲食だったり物販の店だったりするのだが、内装業というのはコンサバな仕事だ。というのもそこには様々な制約があり、ゼロから考えるということがまずないうえに、実際にお客さんがその場を訪れて時間を過ごすわけだから、あまり突飛なことができない。基本的に天井、壁、床が必ず必要で、そこに座れるもの(椅子)やものを置くもの(テーブル)が飲食の場合は必ず必要だし、物販の店だと棚やハンガーラックが必須だ。そしてそれらに求められる機能はもう何百年も考え、作られてきたもので、「僕が生み出したものです!」なんて言えるものは一つもない。何を作っても何かに似ている。新しいものを作ってやるぞと意気込んで取り組んでも、似たようなものがもう50年前にあったり、100年前の椅子のほうがはるかに優れていたりするのだ。
 
ただ単純に俺に才能がないからかもかもしれない。天才的な人なら何かものすごい、見たこともないようなものを作れるのかもしれないが俺はそんな人間じゃない。仕事をこなすうちに俺は見たこともないようなものを作ろうとすることを諦め、必要があればすでにあるものを微調整したり、どう昔からあるデザインを今に合わせてブラッシュアップできるか?を考えるようになった。飛ばしたデザインを作れても、すぐに飽きるようなものでは駄目なのだ。長い年月持つような空間を作ろうとするときには特に。昔からあるものが受け継がれているとき、そこには確かな理由があり、無理に新しいものなどを捻り出す必要はない。そして過去に残された膨大なアーカイブを辿れば、答えやヒントは必ずそこにある。
 
新しいものが求められるものと、そうでないものがあると思う。電気製品などは新しい方が大抵の場合良い。10年前の携帯のほうがデザインがいいといっても機能的にはそれを使い続けていいことはない。携帯性を求められるものは特に新しいもののほうがいい。技術が進めば進むほど、小さく、軽く作れるようになり、形もそれに合わせて変わっていくものだ。昔じゃ考えられなかった構造のものでも可能になっていたりするのだから。だからなんでも新しいものが好き、という人の中にガジェット好きが多いのも納得できる。
 
それに対し新しければなんでもいいとはいえない、内装みたいな分野のものがある。代表例が服だ。とくにメンズ服というものは制約が多ければ、ルールも多い。基本、着るものの形というのはずっと昔から決まっているのだ。下半身を覆うのにパンツ以上のものはないし、洗濯性を考えればコットンがまぁ一番便利なのも決まってる。Tシャツだってあれ以上の形はない。普通の街に住んでいればある程度の機能性があればそれ以上のスペックなど必要ない。見たこともないような服、というのを大人になってから見たことがないかもしれない。どこかいろんな工夫をして変わったものを作りだしても、大体元からあった形に戻っていく。音楽だってそうだ。聴いたことのない音楽というものに随分と出くわしてない。テンポや音色が変わっても、体感したことのないような周波数としての音や、全く感じたことのないリズムというのはないんじゃないか?
 
じゃあ新しいものというのは生み出すことができない?というとそういう訳でもないと思う。新しいという言葉の意味をどう捉えるかにもよってくるけれど。確かに見たことも、聞いたこともないようなものを作るというのは難しい。決まったフォーマットのようなものから逃れられないものだらけだ。けれど、昔からあるものから目を逸らさず、よく見て、理解すれば、そこから発展できる何かがきっとあるはずだ。だからこそファッションというものが淘汰されず、生き残ってきたのだ。
 
温故知新という言葉がある。古いものに新しさを感じる余白が、内装や服や音楽にはあるのだ。古着が人気だと言われている。俺が若い頃にももちろん人気だったが、それはそれは厳しい、古着道みたいなものだった。同じものでもタグ違いや染め違い、はたまたステッチ違いなど、豊富な知識と予算がないとついてはいけないような、それはまさしく道だった。今はそれとは違う。もちろん掘り下げれば永遠に掘り下げられる地獄の道だが、それより買いやすいか、形や色味が自分に合うか?という至極真っ当な選び方でみな古着を着ている。やたらとデザインされたものや、派手にグラフィックを入れたものに飽きたのかもしれない。普通に存在した、かつての着られる服に新しさを感じる。それはコロナ禍でむしろ進んできたような気がする。
 
一部の富裕層はコロナで逆に株だ不動産だ、で儲けたらしくハイブランドの服や時計、車などは在庫がなくなるほど売れているらしい。どこにも行けない中で、金を使いたいという層は必ずいるわけで、はいどうぞとしか言えないのだが、その中で普通に暮らす俺たちは、この不自由な生活の中で確実にモノに対する見方が変わったと思う。無駄遣いをしないというのは基本として、例えば服であれば本当に着られるものとか、普段着使いするものとしてしっかりと見定めるようになったんじゃないかと。着る機会がないような服とか、他人にひけらかすための服は必要ない。そういう意味で行き過ぎていたところのあるファッションにはどこか原点回帰の雰囲気というものが今、確かに生まれているのだ。
 
コロナ前、渋谷でもどこでも繁華街を夜うろつけば、全身プリントだらけや、蛍光色のような派手な色した服を身にまとう人を大勢見かけたが、今はそうじゃない。クラシックな普通の古着を、自分なりに着こなす人をたくさん見かけるようになった。そしてそれは見ていて何か気持ちがいい。それでいいんじゃない?無理にだれかになる必要もなければ、無理して何回着るかもわからんような服に大事な金を突っ込む必要もない。オーセンティックな中に感じる新しさ。そう考えれば、クラシックといわれるものをちゃんと理解し、現代にアップデートすることで、未来のクラシックになりそうなものを作っている人たちは多い。
 
クソみたいな2年をコロナで過ごしてきたが、文句ばかりを言いたいわけじゃなくて、コロナのお陰で良かったこともある。例えば服に対してリセットが押されたような。気楽に遊びにいくこともない中で、俺たちは何が必要で何が不要かを知ったと思う。新しいコラボだ、デザイナー交代だというハイプにまみれた世界から、一歩引いて自分の目で服を見れば、ちゃんとした服を作っている人たちがいる。今こそそこに目を向ける時期なんじゃないか。そうは思わないかい?
 
 
野村訓市
1973年東京生まれ。編集者、ライター、内装集団Tripster主宰。J-WAVE『Traveling Without Moving』のパー ソナリティも早、8年目になる。企業のクリエイティブディレクションや映画のキャスティングなど活動は多岐に渡る。

This article is included in

Silver N°15 Spring 2022

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