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Interview with Nobuhiko Kitamura about What is STREET?
Street Culture

Interview with Nobuhiko Kitamura about What is STREET?
Street Culture

北村信彦 1962年生まれ。ヒステリックグラマーのデザイナー。ブランドは1984年にスタート。1986年に原宿にショップをオープンさせ、2019年に35周年を迎えた。今も世代問わず、ロンドン、アメリカ、中国と世界中から支持を受ける。
ストリートを介して世界が繋がった
80~90年代と、そこにいた人々
好きなことをコンセプトに
ブランドスタートに至るまで

ストリートらしい行動とは何か。ある意味、偏った考え方ではあるが、他のカルチャーとクロスオーバーし、DIYで新たなやり方を模索しながら、真新しい提案を行い、それが既存の価値観を覆すような波及力を持つアクションではないか。ヒステリックグラマーは、そういったストリートな動きをいち早く行い、世間に自分らしさ、つまりヒステリックグラマーとは何かをカルチャーとして提示し続けてきたブランドだ。例えば、ファッション×アートを冊子やジンなどの形として提示すること。ヒステリックグラマーは、過去に発行してきた刊行物『hysteric』において、1993年に森山大道の写真集を異質の大判で発表したり、1998年にはテリー・リチャードソンの写真集をテリーの初個展開催に合わせて発表してきた。ファッション×アートのクリエイションというのは、今では世界的に当たり前のことだろうが、特に90年代前半の頃はストリートにおいても、芸術界においても異端な行動であった。誰もやってこなかったことをやる、その根底にあるのは尊敬と相手への愛情、何よりも自分が好きだからという絶対的好奇心。そういった遊び心を優先させながら、ヒステリックグラマーはストリートにおいて行動し続けてきた。HIPHOP、スケートがストリートの中心にある存在であったのに対し、設立時から今に至るまで、ブランドのルーツに60年代後半から80年代前半のロックやサブカルチャーを掲げながら、独自性を保ちつつ現在へ。1984年に当時21歳だった北村信彦が立ち上げたブランド、ヒステリックグラマーは昨年35周年を迎え今年から新たなフェーズに入った。その1号店が原宿にオープンしたのは1986年だ。いわゆる日本のストリートカルチャー夜明け前の時代にいち早くブランドのスタートを切っているわけだ。80年代中盤から現代に至るまで、渋谷・原宿の第一線で活躍し続けてきたデザイナー、北村信彦にとってストリートとは何か。「僕が学生だった80年代前半の頃は、コム・デ・ギャルソンやヨウジヤマモトがパリコレに進出したり、イギリスではヴィヴィアン・ウエストウッドが活躍していた時代だったんですね。当時の彼らが提示していた物事をパンク的なものと見る考えもあったんですけど、自分にとってはモードにおける新しい表現というイメージだったんです。実際に東京コレクションの現場でアルバイトする機会もあったりしたんですが、ショーを繰り返しやったり、それが出来ていく過程を見ながら、果たして自分がファッションデザイナーになるとして、同じスタンスでものを考えていけるのだろうか、と悩んだりしましたね」。
 
学生だった北村信彦はディオールの歴史などを学ぶ中で、当時、時代の先頭にいた新鋭ブランドもまた、過去のファッションにリスペクトしインスパイアを受けながら、それを自身のフィルターを介して表現していることに気づく。「20歳くらいの頃だったんですが、一番影響を受けたものは何かというと、音楽カルチャーであったり、ヴィンテージの古着だったんです。それでヒステリックグラマーをスタートさせるときに、自分の好きなものを追究していくブランドがあってもいいんじゃないかな、と考えて。レディースブランドとしてスタートしたわけですが(2001年にメンズラインをスタート)、当時のレディースにおけるミリタリーは今のように自由な表現ではなく偏ったものだったりした。じゃあ、そこにメンズの要素を入れても面白いんじゃないか。自分が10代から好きだったミュージシャンが着ていた服を参考にして洋服を作っていっても楽しいんじゃないか。そんなことを考えながらやっていました。そんな時期、来日していたソニックユースやプライマルスクリームのメンバーが店にやって来て洋服を買っていき、アメリカやイギリスに持ち帰って向こうの音楽雑誌に紹介してくれたことを後で知って。そんな風に世界と繋がってやっていくやり方が成立するのかな?と考えるようになったんです。では、どうやったらイギリスやアメリカの人が持つ感性を勉強できるのか、と考えたときに身の回りにいた海外のヤツらと生活してみようと思ったんです」。

1994年にヒステリックグラマーから発行されたマーク・ルボンの写真集。当時のロンドンストリートの様子を知ることができる貴重なアーカイブ。ギミーファイブの面々が掲載されているページも。

 

東京とNYとロンドンが繋がり
ストリートが作られていった

そこで北村は菊池武夫のショーに参加し、東京に住み着いていたイギリスからやって来たカメラマンのアシスタント、スタイリストの卵やモデルとの生活を始めた。自宅に彼らの友人が交代に出入りし、その中にはクリストファー・ネメスやジュディ・ブレイムなどもいたクリエイティブチーム、バッファローの若手であり、当時はロンドンのヘアドレッサー、CUTSにいたジェームス・ルボンもいた。「ジェームスは当時、CUTSを出てフィルムディレクターになろうとしていて、ヒステリックグラマーのビデオを撮ってくれたんです。そして彼はロンドンに帰り、編集されて音楽も入ったビデオが送られてきました。その数ヶ月後に、ジェームスの親友でギミーファイブのマイケル・コッペルマンが訪ねてきて『サウンドトラックを作ったのは自分なんだ』って言うんです。当時、彼もロンドンでステューシーの代理店を始めたばかりの頃で、一緒にヒステリックグラマーも取り組みたいってことで来てくれたんです。それが90年代初頭くらいですね。同時期にNYではヒステリックグラマーの小さなお店をイーストヴィレッジで運営していたんですが、そこにテリー・リチャードソンやイギー・ポップ、ラリー・レヴァンといった面々が来てくれていたんです。そうやって東京とロンドン、NYの交流が始まっていったんですが、ストリートファッションという呼び名が生まれたのはその頃でしょうね」。

ヒステリックグラマーが1993年に発行した森山大道の初写真集『Daido hysteric no.4 1993』。一年半ほどの時間が欲しいという森山大道の意見を聞きいれて300冊限定で作られたもの。左は翌年に発行した『Daido hysteric no.6 1994』。どちらも300ページを優に超えるボリュームで大判の作品。

 
やがて、時代は90年代を迎え東京ストリートが大いに盛り上がりを見せる。東京、NY、ロンドンと世界中に同時多発的に新たな価値観が生まれ、東京は世界とリンクし、いわゆる“裏原”に代表される、音楽、スケートボード、グラフィティなどユースカルチャーのエネルギーが主体となった文化が確立していった。「ヒステリックグラマーUKをスタートさせた頃(1991年以降)、年に何度かはロンドンに行って、マーク・ルボンやジュディ・ブレイムからいろんな話を聞いていろんな作品を見せてもらっていました。当時、ギミーファイブの若手としてキム・ジョーンズも隣にいて。きっと、当時の経験は今の彼にとって必要不可欠な要素なんでしょうね。だからショーン・ステューシーとコラボしたり、ディオールの2020~2021ウィンターメンズコレクションではジュディ・ブレイムをオマージュしたりしていて。今思えば、もともとは点だったものが20年間、30年間と構築されていって、必然的に現代のトップクラスのデザイナーにとってのルーツがストリートになっていったのでは、と思います」。ストリートから生まれたステューシーやシュプリームが世界中で支持を得ていく時代を北村はどう見ていたのか。「シュプリームが出てきた辺りから、ただのカジュアルブランドだと、ヒステリックグラマーは単なる洋服屋で終わってしまうと思ったんです。そこで写真家と一緒に写真集の出版をし始めたんです。森山大道さんのところに行って、一冊本を出版させて欲しいとお願いしたり。当時、日本のコンテンポラリー写真には海外の人は誰も興味を持っていなかったので、そのシーンに貢献できないかな、と考えたり。その活動は日本よりも海外で高く評価してもらえて、続けていくうちに、森山大道さん、荒木経惟さん(2008年発行の『KOSHOKU PAINTING』)はもちろん、中平卓馬さん(2002年発行の『hysteric six Takuma Nakahira』)などの写真集も高値で取引されるようになってきて、やった意味があったかもしれない、と。シュプリームも段々とアートや写真のシーンと深く繋がってブランドを構築するようになっていったじゃないですか。自分にとっても、ようやくブランドがこういう動きをするのが当たり前になってきてくれたかな、という実感がありましたね」。ヒステリックグラマーがスタートした80年代から現代のストリートへ。その変遷を振り返り、どんな様相だったと北村は感じるのだろうか。「日本の歴史に例えるのであれば明治維新みたいなものかもしれませんね。大袈裟だけど、そんな時期だったと思います。ストリート以前まではデザイナーだと三宅一生さんや山本寛斎さんがいらっしゃって、日本のファッション史を作っていましたけど、その頃は東京とNYは同じ目線で語られていなかったかもしれない。その後に異端と言われた川久保玲さんがパリコレクションに進出して、一気に感度の高い海外の人が日本に興味を持ち始めた現代に繋がっている。僕の場合はロンドンから来ていた不良外人の連中と交流を持つことで海外へのルートを作っていった。それをジョニオ(アンダーカバーの高橋盾)たちがフォローしてくれて、裏原でカルチャーを含む“何か”が生まれて、若くして経験がなくとも自分たちでものが作れて表現できる時代がやってきた。それは日本人だけだと成り立たなかったと思うし、80年代から90年代手前に日本と海外を行き来していた海外の連中がいてくれたから、東京における80~90年代のカルチャーも成り立ったような気がします。90年代初頭にマーク・ジェイコブスやジョン・ガリアーノが当時のギミーファイブで買ったヒステリックグラマーの服を着てインタビューを受けていたりとか。それを見たときはすごく嬉しかったし、東京、ロンドン、NYと若い世代が同レベルで繋がったように感じた瞬間でした。そこに、まだ日本のマーケットがいろんな意味で不十分であったときにステューシーが乗り込んできた。ストリートで世界は繋がってファッションとクリエイションの在り方を変えていったんじゃないでしょうか」。

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